「子どもをしゅくふくするイエスさま」イザヤ11:6-8 マルコ10:13-16 中村吉基

イザヤ書11:6-8;マルコによる福音書10:13-16

今、パレスチナのガザ地区で、イスラエルからの攻撃が続いていて、もう1万人を超える人たちの命が奪われてしまいました。ウクライナでもずっと戦争が続いています。子どもたちからお年寄りたちまで、それだけでなく、かわいい動物たちもとても不安で、毎日心配しているでしょう。先ほど読んでもらった旧約聖書にはイザヤさんという神さまからのお言葉を人々に伝える預言者のお仕事をしていた人が出てきます。イザヤさんは、ある日、神さまからのお言葉をこのように伝えました。

「戦争をしても、たくさんの兵隊さんやたくさんの武器の力を見せつけても、そして相手の国に乗り込んで行って、おどしても絶対に「平和」にはならないでしょう。天の神さまは、すべての植物や動物、また人間を一つ一つ、一頭一頭、一人一人大切におつくりに神さまは大切に大切にお造りになりました。その神さまのお気持ちをみんなが知って、『神さま、ありがとう』『みんなのいのちをありがとう』と助け合いながら生きる時にはじめて平和な毎日がおとずれますから、みなさん、神さまのお言葉にききましょう」。

ここで、ちょっとびっくりするようなことが聖書に書かれています。「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く」(6節)。いったいこんなことが本当にあるのでしょうか。食べる者と食べられる者、強い者と弱い者が一緒にいる。こんな光景を私たちは見たことも、聞いたこともありません。

しかしイザヤさんは、いつかこういう日が必ず来るのだといいました。狼が小羊と同じ場所に寝そべってのんびりしていたり、豹が子山羊と一緒に突っ伏して、寝そべって大の仲良しになっていたり、子牛や丸々太った家畜たちがライオンと一緒にいても心配することないなんて……どうしても信じられません! 一緒の場所にいて、眠ったりして、これらの動物さんたちは一緒に大きくなっていく、そしてその動物たちを小さな子どもがそれを追っていくというような信じられないような光景が聖書に書かれています。《小さい子供》というのは力を持たない、か弱い存在であるということです。でもそのような者が平和な日が来たら、これらの動物たちを導いていきます。私たちの常識を超えるようなことが必ず起こるのだとイザヤさんは人びとに伝えました。

それからこんなことも今日の聖書には書いてあります。「牛も熊も共に草をはみ(食べ)/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう」。牛も熊も共に草を食べたり、お互いに安心して仲良くなればなるほど、みんながみんな安心して平和な毎日が続くであろう、と神さまはイザヤさんの口を通していわれました。そして《ひとしく干し草を食らう》と記されています。熊さんと熊さんの間に牛さんが頭を突っ込んでエサを食べているような日が本当に来るんですよ、とイザヤさんは言いました。

また8節には「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ(赤ん坊が毒蛇の近くでハイハイしても、噛まれない)/幼子は蝮の巣に手を入れる(小さな子どもは平気で蛇さんの巣に手を入れます)」これも考えられないようなことです。しかし、イザヤさん「いつか神さまがみんなのところに来る時には、このようなことが実現していくのだ」と言いました。つまり、安全で安心して毎日を過ごせる平和な日々が来るだろうと、そこに神さまの栄光が輝くのだというのです。

私たちが毎日生きているところには「狼」と「小羊」はいませんが、「強い人」と「弱い人」がいます。それは、豊かだったり、貧しかったり、また健康だ、今病気に苦しんでいる、才能がたくさん与えられて何でもできる人もいれば、反対に嫌いなことがたくさんあって苦しいなぁという人などさまざまです。私たちだってその時の状況に応じて、ちょっとしたことで強い立場になることがあれば、弱い立場になったりもします。私たちの世界はどこへ行っても「強い人」がいれば「弱い人」もいます。そこでは弱い立場に置かれている人は苦しい、辛い毎日を生きています。弱い人が強い人に合わせて生活するのはとても大変なことです。しかし、イザヤさんは「狼と小羊がいっしょにいることができる」と言っています。本当でしょうか?

私は牧師になる勉強をしていた神学生の頃に、練馬区にある教会で実習生をしていました。その教会には目の見えない、耳もまったく聞こえないおじいちゃんが礼拝の時には前から2列目の席に必ず座っておられました。礼拝の折に司会者はこの方のお名前をいって○○さんに合わせて主の祈りをささげましょう。と言います。そのおじいちゃんは目が見えなくて、耳も聞こえないから、礼拝に集まってきた何十人の人たちは、そのおじいちゃんのペースに合わせて主の祈りを唱えました。いつも大きな声で「て〜ん・に・ま・し・ま・す…」って始まりました。そうするとみんながゆ〜っくり「われらのちちよ」と続きました。教会の人々はこのおじいちゃんを車で送り迎えをして、いつもだれかが手のひらにカタカナで文字を書いて通訳をしています。私も礼拝でお話をする時には、通訳してくれる人のために原稿を渡したり、とくに聞いてほしい部分はゆっくりと、時には繰りかえして話すように努めました。その教会には多くの身体や心に障がいを負っている方々が集まってきていました。

さて、イエスさまの周りにもたくさんの人たちが集まっていました。子どももおとなも…。今日はいつもの教会学校の礼拝と違って、みんな一緒に礼拝しています。イエスさまの周りにイエスさまに助けてもらいたいと人、苦しい人、イエスさまから元気が出るような言葉を聞きたい人、それからイエスさまを嫌いだと思っている人たちもちょっぴり集まってきていました。おとなたちが、イエスさまに「触れていただくために」(マルコ10:13)集まっていたとここには書かれています。触れるというのはただ触ってもらうというのではなくて、病気を治してもらうという意味もありました。当時はお医者さんがいっぱいいるわけではありません。薬もたくさんあるわけではないのです。大きな病院もなかったのです。イエスさまの時代には、子どもたちの半分は10歳になるまでに死んでしまっていたといわれています。

そんな中で親たちは、自分の子どもに手を当てる(手当て)くらいしかできませんでした。でもあの評判のいい先生、神さまの力を持っているイエスさまに手を当てていただいたなら、もしかしたら子どもの病気は治るかもしれないって必死に親子でイエスさまのところにやってきました。

お弟子さんたちはちょっと困ったなって思って親たちを叱りましたが、優しい優しいイエスさまは「こちらに来なさい、誰でも来なさい、神さまはみんなを大歓迎しますよ!」って子どもたちをお招きになりました。

私はこの物語を読んでいて、ガザ地区やウクライナで攻撃されてそこで殺されてしまったたくさんの子どもたちやおとなたちのことを重ねて思いました。ガザやウクライナの人たちにも今、イエスさまが「子どもたちをわたしのところに来させなさい」言ってくださっていると信じています。

このあと子どもたち一人ひとりに手を置いてお祈りします。私の手を置きますが、きっとイエスさまが一緒に手を置いてくださるでしょう。「昔、子どもだった」おとなの人たちも祈ってほしい人は子どもたちと一緒に並んでください。祝福のお祈りをします。

クリスマスが近づいてきました。神のひとり子イエスさまは私たちの世界に来て、友だちとなってくだいました。それは神さまが私たち人間という弱い者に合わせてくださったということです。神さまはご自分のペースに人間を従わせようとさせるのではなく、神さまの側から人間に合わせて下さったのです。神さまは私たちのうち誰一人も見捨てることはありません。見離すこともありません。私たちがそのことを知るとき、私たちもまた他の誰かのペースに合わせて一緒に歩む、という生き方が出来るようになります。私たちもそれぞれに与えられている場所で、弱く、困っている人々と共に生きることができたらどんなに幸いでしょうか。

(祈り)
私たちの神さま。いま子どもたちを助けてください。お守りください。
からだの痛みや心の苦しみを抱えている子、悲しくて辛い出来事に振り回されている子、ざんこくな戦争の中にいて、貧しさや食べ物にもありつけない子どもたちに今、触れてください。代々木上原教会の子どもたち、一つ一つのご家庭、この地域の子どもたち、日本中の子どもたち、そして世界中の子どもたちにあなたの平和がありますように。そしておとなたちが何をどう行動したらよいのか、教えてください。イエスさまのお名前によって、お祈りします。アーメン。