申命記7:6-11;ヨハネによる福音書15:12-17
私たちにはどんな友が与えられているでしょうか? 少し考えてみたいと思うのです。皆さんには、自分を愛してくれる友がおられますか? 自分に寄り添ってくれる友がおられるでしょうか? 反対に、愛する友がいるでしょうか? 寄り添うことのできる友が与えられているでしょうか? 「親友」が与えられている人は幸いです。心から信じられる人の存在は私たちを強くするからです。
「信頼」「信用」できる人がいることは幸せです。お互いのことをよく理解し合い、また尊敬し合い、何でも話せる友がいるのと、いないのとでは私たちの人生は全く変わってくるからです。
今日の箇所は主イエスが最後の晩餐の際に弟子たちに話された、「告別説教」と呼ばれているメッセージです。主イエスはここで弟子たちをもはや僕(しもべ)とは呼ばず、「友」と呼ぶと宣言されました。これは弟子たちだけのことではありません。主イエスは私たちをも「友」と呼んでくださいます。
主イエスは、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)と仰せになります。なんと嬉しいことでしょうか。なんともったいない言葉でしょうか。そしてなんと光栄なことではないでしょうか。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。私はこの言葉を聞くと主イエスが生前ガリラヤにおいて、旅をして貧しい農民に、あるいは病気の人に、差別されていた人に「神の国とはこのようなところだ」と真剣に語っていた表情を思い浮かべます。
その主イエスの働きは今、この時代においても続けられています。主イエスの〈親友〉とされた私たちが、自分の内側に生き続けておられる主を宣べ伝えていくのです。私たちは苦しみの中にある人に主イエスの救いのみ言葉を伝えることができます。またさまざまに傷ついている人に主イエスの慰めのみ言葉を届けることができます。そして孤独な人に主イエスの暖かなみ言葉を届けるのです。それは今この時も主が皆さんの中で生き続けておられるからです。
あの「辺境」の地といわれたガリラヤから主イエスの「み言葉のリレー」が歴史の中で行われてきました。先週もお話ししましたが、使徒パウロは、生前の主イエスに会ったことがない人でした。それどころか最初のキリスト教徒たちを何か胡散臭い、変な連中だと見ていたのです。キリスト教徒の迫害の先頭に立っていました。けれども、使徒言行録の9章以下に記されていますが、復活の主イエスに呼びかけられて回心して大伝道者となり、各地に教会を建てていったのです。パウロはそれだけではありませんでした。新約聖書にある手紙を書きました。今、SNSなどに慣れてしまって、あまり手紙を書かなくなった私たちからすれば驚くような長い手紙を書きました。それもこれも全てパウロという人が主イエスの「友」とされた、ということに起因しているのです。パウロの主イエスを伝えたいという情熱と、そして各地に立てられた教会に生きる人々を愛する思い、この愛する思いもパウロの中に生きている主イエスからほとばしり出るものではなかったかと思うのです。そのような愛が彼を駆り立てたのです。
そうして主イエスのみ言葉は、この21世紀に生きる私たちのところに届けられました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)。私たちが主イエスを選んだのではない、主イエスのほうから私たちを選んでくださった。最初にお話ししましたが、この主イエスが話しておられたのは、あの最後の晩餐の部屋でのことでした。なぜ、最後の最後に主イエスはこのことを語られたのでしょうか? 弟子たちの中には、「自分が主イエスを選んで従ってきたのだ」と思っている人が何人もいたのではないかとも思うのです。
私たちも同じ思いがあるかもしれません。自分で教会に通うことを決めたはずだ。そして自分の決断で信仰生活を送っているのだ、という思いです。けれども主イエスは言われました。「わたしがあなたがたを選んだ」。私が選んで信じているのではなく、神の選びによるのだという促しです。信仰とは、神や主イエスを信じることも、また教会につながっていることも、すべて神の選びによるのだと信じられるどうかにかかってきます。自分が選んだのではなく、主イエスのほうから自分のことを選んでいただいたという事実を信じなさい、と主イエスは仰せになられました。
自分で選んだ、という思いは宗教を信仰する人にありがちなことかもしれません。日本ではすぐに信仰を棄ててしまう人が多いのです。ご利益主義で宗教を選ぶ、病気が治らない、願いがかなえられない、そんなことでその信仰を棄てる人が多いのだそうです。たえず教会や宗教を変わり続けるタイプの人がいます。例えばその人たちが「わたしが主イエスを選んだ」と自信たっぷりに言ったとします。しかし、その「わたし」自身がいつその信仰を棄てるかも判らない危うさを誰もが持っています。でも安心してください。主イエスは宣言しておられます。「わたしがあなたがたを選んだ」。
「わたしがあなたがたを選んだ」と聞いて違和感を覚える人もいるかもしれません。でもよくよく考えてみると、皆さんが教会に来られたのは、たまたまなのではありません。キリスト者の家庭に生まれた方もおられるでしょう。友達が教会に行っていて誘われた方もあるでしょう。入学した学校がキリスト教の学校だったとか、主イエスとの出会いは一人一人違います。そのようにして教会に導かれました。聖書との出合いがありました。しかし私たちの周囲には、キリスト教とは何の関係もなく生きている人もたくさんいます。日本に暮らしていて、キリストを信じていることが希少な存在だといっていいかもしれません。でも教会に導かれている、他の人がまだ知らない主イエスに私は出会っている。これはたまたま起こったことではなく、神があえて皆さんという一人を選ばれたのです。このことを素直に喜んでいいのです。神は皆さんを確かに友と呼ばれたのです。
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(17節)。
私たち一人ひとりの中に「互いに愛し合いなさい」という主イエスの教えが実現するときに、復活された主イエスは今この時も私たちの中で生き続けてくださいます。そして今日の箇所が始まる1節前のところですが、11節で「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。主イエスが言いたかったことはここに集約されているのではないかと思います。私たちがいつも喜んで、その喜びがいつも満ち満ちているために、神は私たちを選び、そして友と呼んでくださいました。この後、聖餐を共にします。主イエスが私たちのもとに来て、そして私たちの中に入って、一緒になってくださるのです。このお招きに応えて、喜んで主をお迎えしましょう!