「天の国は誰のものか」マタイ5:1〜12 中村吉基

ミカ書6:1〜8;マタイによる福音書5:1〜12

今日の箇所には「心の貧しい人々は、幸いである」から8つの「幸い」に至る主イエスの言葉があります。ここには主イエスの教えがすべて凝縮されているといってもいいでしょう。ガリラヤの山上で主イエスが人々に神について教え始められた最初の教えとして位置づけられています。この箇所の前のマタイによる福音書の4章24節にこうあります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた」。今日の箇所はこの「群集」を見て、主イエスが語った長い説教のはじめの部分になります。

またこの箇所をマタイ福音書の記者が、主イエスの言葉を編集し直して、新しくキリスト者になった人々に、キリスト者としての新しい生き方を指し示す言葉として記されている、と指摘する聖書学者もおります。3節から「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」。

「貧しい人々」「悲しむ人々」とはどういう人のことでしょうか? 主イエスの時代には、歴史の荒波にもまれて、自分の身を守るための地位やお金もなく、日々の生活の苦しみの中で、涙を流しながら、神に悲鳴を上げていた人々があふれんばかりにいました。神は人間の心からの悲鳴に耳を傾けられます。それだけではなく、神の心にその叫びが届いたとき、神は動かれます。たった一人の、私という人間が叫びを上げても、それを見捨てずにはおかれません。もし皆さんが、神という方が自分のそばにいてほしいと思うならば、心からの叫びだけで十分でしょう。私たちの聖書では「幸いである」と訳されている言葉を、ある人は「素晴らしい知らせ」(N.T.ライト)と表現しました。幸いという言葉を全て「素晴らしい知らせ」と置き換えてここを読むことができます。「心の貧しい人々に、素晴らしい知らせを伝えよう。天の国はその人たちのもの」「悲しむ人々に素晴らしい知らせを伝えよう。その人たちは慰められる」というように読むのです。

主イエスがこのように優しく、しかし、威厳をもって宣言なさったのでしょう。この時代の信仰理解は、「細かい律法を守ることなしに人間は救われない」とされていましたから、この主イエスの呼びかけは、群衆にとっては腰を抜かさんばかりの新しい教えでした!

主イエスの言葉は続いていきます。5節のところからです。

「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける」。

ここでは3つのタイプの人たちが出てきます。「柔和な人々」「義に飢え乾く人々」「憐れみ深い人々」です。最初にある「柔和な人」とは、どんなことがあっても相手を受け止めていく心を持った人のことです。ある聖書では「人の痛みが分かる人は、神からの力がある。その人は自分の痛みを分かってもらえる」(本田哲郎)と訳されています。

「柔和な人」というのは言い換えてみれば、「心から人を愛することができる人」であろうと思います。相手を見て、その罪や、醜さや未熟さや欠点などをあげつらって自分の心を閉ざしてしまう人は「柔和な人」とは言えません。私たちは、ほんのちょっとしたことで気を尖らせ、自分に不利益なことが生じれば、イライラして相手を責め立ててしまうところがあります。またたいてい自分の心を守るために、相手の悪いところを重箱の隅をつつくように並べてみたりするのです。私たちは果たして「柔和な人」なることが出来るのでしょうか。そんなことは不可能じゃないか……そう思ってしまうのではないでしょうか。

私たちのすぐ近くでそれを成し遂げられたのが主イエスでした。彼の生涯を振り返るときにそこには、十字架の死に至るまで一人ひとりの人間を大切にする心が生きていました。一人の人間(一匹の羊)を大切に思うがゆえに、相手に何が必要かを考え、相手の幸せを願って、自分の力を使う。それが「義に飢え渇く」(神の前に良き者となりたい)「憐れむ」「平和のために働く」ということです。

けれども、誤解してはいけないのですが、主イエスは山上の説教で私たちの「行動目標」をお定めになったわけではありません。すでにこのような状況にある人々は「幸い」である。祝福されているのだというのです。「今、ここ」でのことです。先ほども申しましたが、当時の中心的な信仰理解は「細かい律法を守ることなしに人間は救われない」というようなひじょうに形式的なものであり、このような信仰によって多くの人がふるい分けられて、その信仰から脱落をしてしまっていました。そこに主イエスが新しい教えを伝えたのです。古い信仰の時代は終わった。そして一見、貧しい人も、誰か(一家の大黒柱だったかもしれません)を亡くして途方に暮れて泣いている人も、この世の中で誰からも見向きもされなかった人たちがその信仰理解や価値観から、この新しい教えによって転換あるいは逆転しているのだと、主イエスは宣言されたのです。

「幸せなら 手をたたこう」という歌があります。この作詞をした木村利人さんは、キリスト者の方です。生命科学の研究者で、キリスト教学校でも要職をお勤めになりました。私も牧師になる以前からたいへん親しくさせていただいております。この歌詞のなかで、

♪幸せなら 手をたたこう

幸せなら 手をたたこう

幸せなら 態度でしめそうよ

ほら みんなで 手をたたこう

「幸せなら 態度でしめそうよ」ってあります。今日の箇所を照らし合わせれば、「態度でしめせる人は、幸い」ということでしょうか。「相手を心から受け止め、人の痛みの分かる人は、祝福される」ということです。私たちは心の中で思うことは簡単ですが、なかなか態度にあらわすことはしません。

不思議なことに人に多くを与える人は、また人からもピンチのときに助けてもらえたり、多くを与えられています。私たちの心には、人のことを「他人事」「対岸の火事」と見てしまう心が潜んでいます。私たちは神に、主イエスに結ばれてこの醜い心を消し去らなければ、本当の意味で祝福されないのです。主イエスの言葉には、まず私たちが「神に結ばれて生きること」を教えています。

最後に10節「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」。ということについてお話したいと思います。神の正義に基づいて事をなそうとして、迫害にあう人々は幸いだと主イエスは言うのです。これは熟慮して読まなければならない言葉です。しかしそれでも「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」。と主イエスは今日も私たちに語ってくださっています。今日の箇所が教えているのは「粘り強い人」です。新しくキリスト者になった人にも「粘り強く」「頑丈に」生きなさい、と。たとえ誰からも祝福されなくても、皆さん、一人ひとりのいのちを作られた神は祝福してくださいます。

そして主イエスも大きく手を広げて皆さんを抱きしめてくださるでしょう。私たちの身体だけではなく、心も、そしてこれまで負ってきた重荷も全部です。皆さんの目からこぼれる涙さえも主イエスは受けとめてくださいます。今日の箇所の8つの言葉の最初と最後(3節と10節)に「天の国はその人たちのものである」と主イエスは言っておられます。「その人たち」と言うその中にはここにいる私たちも含まれるのです。私たちはこの主イエスの約束を信じて「素晴らしい知らせ」を告げられた者たちとして、歩んでいきましょう。