イザヤ書9:1-6;ルカによる福音書2:1-16
皆さん、2022年のクリスマス、おめでとうございます。
今から50年以上前のクリスマスのことでした。ひとりのアメリカ人の男が海軍のパイロットとしてベトナム戦争に赴き、現地で捕虜になり、1967年から5年間収容所に入れられていました。特に最初の2年は厳しい拷問に遭いました。彼はそのほとんどを独房で過ごしていました。ハノイにある収容所は人呼んで「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれているそうです。何やら豪華なホテルを連想しますが、幅は2メートル、奥行きは3メートルとたったこれだけの広さの場所に床にはコンクリート製の板が置いてあるだけで、これがベッドがわりだったそうです。50センチ近い厚さのある壁に、窓には板が打ち付けられていたので、捕虜同士は顔を見ることも、話をすることもありませんでした。天井からは裸電球がぶら下がり、部屋にはスピーカーが設置され、彼らを心理的に参らせるためのプロパガンダ放送が流されていました。
このようなところに人間が一人だけで過ごしていると、精神的に参ってきます。また、頼る人も、信じあう仲間も、語りかける相手もいないとき、人間は判断能力が衰え、勇気を疑い始めます。私たちにとって最も恐るべきことは「孤独」です。孤独は私たちからすべてを奪います。時間以外のあらゆるものを奪うのです。
1969年のクリスマス・イブのことです。彼はベトナム人にひどく殴られ、身体中が痛く、2年前に撃たれた傷も癒えていませんでした。寒い独房に横たわり、プロパガンダ放送を聴いているうちに自分にはもう生き延びる道はないのではないか、と思うようになってきました。そこにスピーカーから歌が流れてきました。ダイナ・ショアが歌う『クリスマスは家に帰るよ』という歌でした。彼にとってそれは残酷な歌でした。自分は一晩だって生きることはできないだろう。もう二度と故郷に帰って家族とクリスマスを祝うことはない。
ちょうどそのときでした。壁を叩く小さな音が聞こえてきました。
収容所は厳しく監視されていたにもかかわらず、捕虜同士、壁を叩いて意思を伝え合う暗号システムを作っていたのです。アルファベットを5つのグループに分けて(なぜかKだけは除外されていたそうです)、A,F,L,Q,Vのグループですが、たとえばAグループの文字を伝えるにはまず1回壁を叩きます。Fグループは2回、Lグループは3回というようにグループを指定してから、間を置いて今度は何番目の文字かを教えるために叩きます。
例えばCという文字ならば、「コン…コンコンコン」と叩いて知らせます。捕虜たちはこのコードを習得し、新入りの捕虜が入ると外の様子などが独房から独房に伝わっていきました。彼にはこの音が大きな慰めになったのです。壁を叩きあい、自分が孤独ではないことに気づかされるとき、深い絶望の淵から救い出され、自分が人間であることを確認していったのです。
1969年のクリスマスの夜、彼が絶望の淵に陥ったときに聞こえてきた壁の音…それは聞き取るのが難しいくらいのかすかな音でした。しかし彼は一所懸命に耳をそばだてて聞きます。次第にはっきりと聞こえてきました。その言葉はこうでした。「クリスマス・には・みんなで・家に・帰るんだ。神よ・われらに・祝福を……。」
男は泣きました。獄中にある捕虜から敵は何でも奪い取ることができる。しかし、自分たちの心までを奪うことはできない。そう思いました。この男の隣りの独房に入っていた捕虜は、CIAの任務にも就いていた人で、生きて収容所を出られる可能性はほとんどありませんでした。しかし、彼のメッセージには胸を刺すような確信がありました。そしていかなる人間の魂にも、希望という神聖な炎が燃えていることを改めて思ったのです。
「クリスマスには、みんなで家に帰るんだ。神よ、われらに祝福を」
その単純なメッセージがこの男の「生きよう」という力を呼び覚ましました。焦ることはない、その時がくれば、帰れるのだ。だからその日が来るまでは何としてでも生き延びなければいけない。こうしてこの男は生きる希望をふたたび得て、出所して帰国したあとは残る人生を人々のために捧げました。おそらく現代社会の多くの孤独な人々の理解者としての働きがなされてきたことでしょう。この男の名はジョン・マケインといいます。その後マケインは政治家として働き、与野党を問わず信頼の厚い議員でした。アメリカ大統領選挙候補者となったこともありますが、2018年に亡くなっています。
今年もクリスマスを迎えました。私たちがどこにいても、どのような状況にあっても、また、クリスマスを祝おうとも祝わずとも、毎年クリスマスはやってきます。皆さんはなぜクリスマスを祝うのかご存知でしょうか。
そんなことを聞くまでもなくクリスマスはイエス・キリストの誕生だから祝うのだと思うことでしょう。しかし、誰もが誕生日を持っています。誕生日のない人はいません。親しい身近な人が自分の誕生日を祝ってくれることがあるでしょう。しかし、全世界の多くの人が自分の誕生日を祝ってくれるということはありません。ではなぜキリストの誕生だけは、全世界の多くの人が挙って祝うのでしょうか。
それは、キリストがわたしたちにとても大切なことを教えてくれたからです。キリストは私たちに、この世界で生きているすべての人は、あなたも、周りの人も、全ての人が神の子だと教えられました。この世界に生きる人のすべて、捕虜として牢獄に捕えられている人、食べ物がなく飢え渇いているホームレス、孤独な人、病める人、悲しみに塞がれている人、苦しみのどん底にある人、差別されている人、危険な状況に置かれている人、そしここにいる皆さん一人一人も大切ないのちをいただいた存在。一人残らずもれなく大切な神の子なんだと、キリストは私たちに教えてくれたのです。これを「良きおとずれ」「グッド・ニュース」「福音」と言われるものです。キリストご自身も神の子ですが、皆さん一人一人も「神の子」ですよと、キリストは全世界の人にこの福音を告げ知らせるためにお生まれになったのです。
今年の夏に『キーウの月』という小さな絵本が発行されました。イタリア人のジャンニ・ロダーリさんが1960年に創った詩に絵が施されたとても素敵な絵本です。この絵本の売り上げはすべてイタリア赤十字社とセーブ・ザ・チルドレンに寄付されるそうで私も求めました。
そこにはこのようにうたわれています。
キーウの月は
(内田洋子訳)
ローマの月のように
きれいなのかな
ローマとおなじ月なのかな
それとも妹なのかな……
「わたしはいつもわたしです!」
月はきっぱりといいます
「あなたが夜ねるときにかぶる
ベレー帽ではないのです!」
空を旅しながら
みんなに光をとどけます
インドからペルーへ
テヴェレ川から死海へも
わたしの光は
パスポートなしで旅をします
今夜東京で私たちが見上げている月は、ウクライナの人々も見上げています。私たちはすぐに自分のことに集中してしまうような者たちですが、ウクライナの平和を求めて祈り続けるということ、そしてそのことを忘れないということが大切です。月を見ているのは自分たちだけではないと思うことは自ずと「他者」について考えることにつながります。キリストは「互いに愛し合いなさい」ということを、命を賭けて教えられました。世界中の皆が月を見ているのだと思うことは、愛することにつながっていきます。
闇のような一年でした。この混迷は来年も続いていくでしょう。しかしそのような闇の中にこそキリストは来てくださったのです。明るい光の中でキリストの光は見えにくく、私たちもまた「良きおとずれ」を知ることがなかったかもしれません。あの耳をそばだてて壁を打つ音を聞くようにしなければ福音に触れることはまだ無かったかもしれません。しかし、今私たちに福音は告げ知らされました。私たちは神と結ばれて生きる特権を得て、神の子として生きることをキリストは教えてくださいました。
キリストからの愛と平和が皆さんにありますように!