「私の隣人とは?」ルカ10:25-37 中村吉基

申命記30:9-14、ルカによる福音書10:25-37

ある教会に発達しょうがいを抱えた子どもが来ていました。その教会の教会学校のメンバーです。その教会では礼拝の後にサンドイッチとかおにぎりとか飲み物を教会の中で売っているのですが、ある時、その子が3つほどのものを買って300円ほどの金額でしたが、計算機を取りだして計算し始めたのです。それを見ていたあるおとながその子に向かって「なんでこんな簡単な計算ができないの?」と言いました。それでその子はとても傷ついてしまいました。深く傷ついてしまったのです。教会に来ても、一切ものを買わなくなってしまったのです。やがてその子は教会の近くのコンビニで昼食を買って来るようになりました。親が電車に乗る時に使うプリペイドカードにお金を入れておいて、そのカードが使えるコンビニで買い物をしてくるのでした。その教会に新しい牧師が赴任してきました。赴任して間もない牧師も事情がわからなかったのでしょう。礼拝でその子が、献金箱が回ってきた際に、箱にプリペイドカードをこすりつけたのを牧師は目にしました。

私は同じ牧師として、この話を聴いた時、ものすごく心に刺さりました。自分も同じことを今までにしていたのではないか。自分の送った視線、また何か自分から援けようとした行動、反対に援けなかったことや言動が人を傷つけていたのではないか。ずいぶん重い気持ちになりました。

今日の「サマリア人の譬え」では傷つき倒れこんだ旅人を通りがかった祭司やレビ人はまったく見て見ぬふりをしました。神殿での儀式を司る祭司やレビ人は血液や死体などに触れて自らが穢れることを嫌ったのかもしれません。しかし最後に通ったサマリア人は、「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」(33−35節)という行動に出るのです。

サマリア人もイスラエル民族でしたが、旧約の時代、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時、異民族と交わり、異教の風習に染まってしまった人びとでした。ですからユダヤ人から見れば、純粋な血統を保っていない人びと、忌み嫌うべき存在として差別されていました。もともとは同じ民族だったのにもかかわらず、自分の主義主張を通すときに差別や偏見が多々生まれます。本当に同じ人間同士、差別しあい、敵対するということは悲しいことです。ユダヤ人からすれば、サマリア人は決して「隣人」の範疇には入らない人びとでした。

けれどもこの譬えに出てくるサマリア人は違いました。倒れている人はおそらくユダヤ人です。サマリア人にとってみれば自分の主義主張を守るとかそういう次元の問題ではありません。いてもたってもいられない。そういう気持ちでした。「今ここで、目の前で」傷ついている、この人の痛みを自分が代わってあげられないか、そのことでサマリア人の胸はすぐにいっぱいになりました。この傷を自分の傷として、このサマリア人が感じたからこそ、助けずにはおれなかったのです。

33節にサマリア人がこの往き倒れている人の「そばに来ると、・・・・・・憐れに思い」とあります。この「憐れに思い」と言う言葉は主イエスがよくお使いになる「スプランクニゾマイ」という言葉、「人の痛みを見たときに、こちらのはらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉です。日本語の「胸を痛める」と言う言葉に近いかもしれませんが、壮絶な愛です。

そして36、37節です。

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

主イエスは今朝、皆さんにも尋ねておられます。

〝あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。〟

この譬え話が語られた背景を知るには、まず主イエスが生きておられた世界を知らなければなりません。主イエスが神の国の宣教をされたのはガリラヤという貧しい地方でした。しかし主イエスはこのような貧しい農村などを拠点に活動され、都市部での活動は見られません。主イエスがお育ちになったナザレもこのガリラヤの一地方でした。

そこは農村社会で90パーセントを占める農民が暮らしていました。今でもここは乾いた土地で、厳しい気候が続きます。

ガリラヤの農民たちはこの土地を根気強く開墾し、オリーブ、大麦、小麦、ぶどうなどを作っていました。今でもこの地方はオリーブ油やワインが名産品になっています。農家は平均5,6名の家族でしたが、収穫のほとんどは、当時ここを支配していたローマ帝国、ユダヤ国家、そしてヘロデ王朝と3重に取り立てられ、破たんした家族の中で女性は売られていき、土地を手放した農民は小作や奴隷となり、また日雇いで暮らすほかはなかったのです。

そのような中で主イエスが語られた「ぶどう園の労働者」の譬えは当時の人々には現実味を帯びたものだったことが判ります。主イエスはそのような農民のこれまた下層階級に属する大工(木工職人)として幼いころから労働をされていたと考えられています。

公生活に入ってからの主イエスは「地の民」(アム・ハアレツ)と呼ばれた社会の中で差別された人々といち早く交流し、徴税人や罪人呼ばわりされていた、つまり当時の人々には忌み嫌われ差別されていた人々のもとへ積極的に出向いて行かれました。主イエスが示されたのは、どんな人であっても「神に愛されている人」として、その人をその人として尊重されました。これまでガリラヤという辺境に生き、人間扱いされてこなかった人々に、主イエスの教えはまさに「よいニュース」であり、神の国を待ち望んだのです。

一人の人もはみ出ることなく、生き生きと生かされていく世界こそ神の国です。人々はその到来を熱望したのです。

主イエスは御自らが貧しい大工の子としてお育ちになり、おそらく両親を始め、周囲の人たちが重税に苦しみ、けれども人間扱いもされず、底辺の底辺で生きていたのを目の当たりにしていたはずです。その被差別者としてのイエスの視点が、その後の言動や活動につながっていたはずですし、サマリア人の譬えを語ったのも、その視点上にあることなのでしょう。

マーティン・ルーサー・キング牧師は、アフリカ系アメリカ人差別の実態として、あるアフリカ系アメリカ人の大学生バスケットボールチームの交通事故の例を挙げています。 

3人が負傷し、救急車が呼ばれたが、白人の隊員は「『黒人』にサービスするのは私の方針ではない」と搬送を拒みました。通りすがりの運転手に搬送を引き受ける者がいたが、搬送先の病院の医者は「われわれは『くろんぼ』をこの病院には入れない」と受け入れを拒みました。やむなく50マイル離れた黒人専用病院に搬送したが、既に1人は死んでおり、残る2人も30分後に息を引き取ったのです。

1968年4月3日(キング暗殺の前日)には、「レビ人は、『もしわたしが旅人を助けるために止まったならば、わたしはどうなるか』という疑問を持ち、サマリア人は逆に、『もしわたしが旅人を助けなかったならば、彼はどうなってしまうか』という疑問を持ったのです」と指摘しています。これは、前者は自己保身のことばかりを考え、後者は「他己」保身(そんな言葉はありませんが)、つまり相手のことを第一に考えています。

今朝私たちに語られた福音の言葉を通して、サマリア人のように苦しんでいる人、悲しんでいる人、病んでいる人に深く共感し、その人の痛みと自分の痛みとして寄り添う私たちでありたいと願います。そして、民族、人種、宗教、思想、セクシュアリティなどの壁を超えて、私たちにはすべての人が「隣人」であるのです。

主イエスは言われました。

「行って、あなたも同じようにしなさい」。