「一人より二人」ルカ10:1-9 中村吉基

イザヤ書66:10-14;ルカによる福音書10:1-9

私たちはどのようにして主イエスに出会ったのでしょうか? 私たちはある日突然、教会に通いだし、洗礼を受けたのでしょうか。今日はまずそれぞれに自分の信仰の歩みを思い出していただきたいのです。突如として、主イエスに出会いたい、教会に行きたいと門を叩いたのでしょうか。多くの方の場合、そうではないと思われます。私たちと主イエス、私たちと教会、そして私たちが洗礼の恵みに与ったのも、ほとんどすべてにおいて「導いてくれた信仰の先輩」がいたのではないでしょうか。教会に行くことを誘ってくれた人、聖書をプレゼントしてくれた友、そして信仰の手ほどきをしてくれた教会の方々など、私たちが信仰の道に入ることのきっかけとなったことには、ほとんど必ずと言っていいほど、誰かの導きがあったはずなのです。

今日の箇所には主イエスが12人の使徒たちに引き続き、今度は72人を宣教へと派遣したことが記されています。私たちはすでにキリストの救いに与った者たちとして、今、この時代にイエス・キリストに派遣されているのです。これから私たちの行いを通して、キリストに、教会に、そして信仰に導かれる人が数多く出てくることでしょう。よって今日の箇所は自分自身に主イエスが語りかけてくださっているみ言葉として聴いていただきたいのです。福音の宣教というのは宣教師や神父や、牧師が専門にやることではありません。キリストを信じる者、キリストの救いに与った者が手を取り合って、またそれぞれのやり方で福音宣教は進められていくものです。そしてキリストを証しすること、宣教することは私たちの使命だと言ってよいでしょう。

今日の主イエスのみ言葉は、人びとの心の奥底までに福音を伝えていくということはどういうことなのか、私たちに多くのことを教えてくれます。主イエスは方々の町や村にも、神の国の福音を伝えるために72人を派遣されました。最初に「(イエスが)御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。

「72」という数字は、写本によっては「70人」と書かれてある聖書もあります。旧約聖書では「72」は全世界の民族の数とされていました。また、レビ記11章にはモーセによって70人の長老が選ばれたことが記されていますから、「指導者」という意味でそれだけの人数を派遣したのかもしれませんし、「72」は12の6倍ですから、十二弟子よりもより多くの弟子たち、主イエスはさらに強固なメンバーを宣教に遣わされたとここを読むこともできるのです。いずれにしても福音は世界のあらゆる人に、平等に伝えられるものだということが「72」という数字一つだけからでも判るのです。

またこの時、一人ではなく、「二人」ずつ派遣されることにも注目をしたいのです。コヘレトの言葉4:9には「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い」という言葉がありますが、お互い協力し合い、助け合うことによって宣教もはじめて実を結ぶということがあるのでしょう。またそのように互いを思いやりつつ、愛の行いをしていくことによって、言葉だけではなく、行いによっても神の愛を伝えていくことができたとも考えられます。また旧約では証言するときには、一人ではなく、二人の証言が有効なものだと考えられていましたから二人同時に遣わされたということもあるでしょう。

この時、主イエスはたいへん多くの人が、この神の国の福音に耳を傾け、興味を示し、その教えを受け入れるであろうと期待していました。ですから2節で「収穫は多いが、働き手が少ない」と仰せになり、神の国の福音を受け入れる人々を「収穫」にたとえています。そのためには共にこの神の大きなご使命を果たすための働き人(伝道者)が与えられるように願いなさいというのです。また、宣教の道は祝福ばかりではなく、あるところでは人びとから総スカンを食らい、またあるところでは石を投げられるような事態にもなりかねません。主イエスはそのことを案じて続けて「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(3節)と言っておられるのです。

しかし、「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな」(4節)というのは少し酷ではないでしょうか。私は財布を家に忘れても、腕時計を忘れても心配しませんが、スマホがないとちょっと心配になりますね。けれどもこの主イエスの言葉の奥には、「福音を伝える」以外のことを何も心配するな、という主イエスの親心が見えるのです。つまり宣教すること以外何も気に留めなくてよい、と。ただただ「無」になって「無心」になって福音を伝えなさいということです。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」(マタイ6:34)という主イエスのみ言葉がありますが、7節にもあるように必要なものは出かけた先で与えられるだろうと言われるのです。伝道者は空っぽの手で、ただ持っていくものは「神の国の福音」そのものです。

私も自戒せねばならないと思いますが、信徒の家を訪問したときに、どうでもいい世間話などを長々とするのではなく、またそこに行く途中に親しい人に出会って無用な会話やおしゃべりに興じて時間を無駄にするよりも、まずは「この家に平和があるように」とその人の平安を祈るべきだと主イエスは言われます。まず「自分」ではなく、「相手」の祝福を祈ることが大切なのです。相手と平和な関係、調和の取れた間柄は何もましてもっとも重要なことではないでしょうか。

しかしいつ何時も相手と良い関係が作れるというわけではありません。私たちの側が平和を願っていても、相手のほうで拒否するかもしれないからです。そんな時、相手を責めたり、相手の悪口を言うことで解決はできません。主イエスは言われました。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7:1)。

相手を責めれば、自分が責められます。相手を中傷すれば、自分が中傷されます。すべて自分に跳ね返ってくるのです。ではどうしたらいいのでしょうか。6節をごらんください。

「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」。

そうです。私たちは平和を祈ることです。相手の平和を求めることは、自分をも平和にするのです。

私たちは何も心配することなく、ただ神に委ねて福音の宣教に励むべきでしょう。「キリスト者としての人生には魅力があるんだ」「教会に通ってみたい」「良いメッセージを聴くことができる」などなど一つ一つのことを整えていくことが、伝道につながるのではないでしょうか。今度、友達を連れてきたいと思わせる教会になる、あの人と友達になってみたいと思わせるようなキリスト者になる。そのことが人びとを主イエスのもとへと導く原動力になるのです。

すべてを委ねて今私たちが生きているこの時代に神の国の福音を伝えていきましょう。何も心配することがありません。今日の最初のみ言葉にあるように主イエスが私たちのあとからここへと来てくださるからです。だからこそ私たちは声を大にして証ししたいのです。

「主イエスは私たちの救い主です!」と。