「まことのぶどうの木に繋がって生きる」ヨハネ15:1-10 槙和彦

詩編80:9-20、ヨハネによる福音書15:1-10

私たちは、2018年の10月に、この教会の会堂で、「特別伝道集会」としてラテン音楽の演奏会を行いました。演奏を披露した「私たち」というのは、私と妻とその他3人の仲間たち(そのうち一人は2019年2月に亡くなった、ラテン音楽の大師匠である納見義徳さん)でしたが、そこではラテン音楽の演奏に加えて、私から少し長い話をする機会も与えられました。「三つの出会い」、すなわち私がラテン音楽と出会い、妻と出会い、さらに教会と出会った経緯について、一般のオーディエンスの皆さま向けにお話をさせていただきました。その時の原稿が教会のホームページにもそのまま載っていますので、ご興味のある方は、そちらもぜひお時間のあるときにお読みいただければと思います。今日は、そのときのことも改めて自分で思い出しながら、今日与えられた機会のために、新たにお話しいたします。

今日の証しのタイトルは「まことのぶどうの木に繋がって生きる」といたしました。今日選びました新約聖書箇所(ヨハネによる福音書15章)にありますように、「まことのぶどうの木」はイエスさまがご自身を譬えられたものです。ここでは父なる神さまは「農夫」に譬えられ、「あなたがた」が「ぶどうの枝」に譬えられています。実のところ、私はこの「まことのぶどうの木」、そして「ぶどうの枝」という譬えが個人的にとても好きです。イエスさまの話の中に出てくる様々な譬え話の中でも一番好きかもしれません。

この聖書の場面に忠実に従うならば、ぶどうの枝に譬えられた「あなたがた」とは、イスカリオテのユダが立ち去った後に残された他の弟子たちのことを指しています。イエスさまがその最後の時、十字架に掛かられる時がいよいよ来たことを悟られ、弟子たちに最後の話をしている、という、弟子たちにとってはとても悲壮な場面です。

私たちは、イエスさまが十字架に掛かられてから2000年近くが経とうとしている21世紀に生きています。私たちはもちろん、イエスさまの直接の弟子ではありません。しかし、この長い時の隔たりにもかかわらず、今この時代を生きる私たちが、この「ぶどうの枝」の譬えを自分たちに、あるいはキリスト信徒一般に当てはめたとしても構わないだろうと私は思います。私は、教会の中で働くときも、あるいは教会から派遣されて世に出てゆき、仕事や様々な活動に携わるときも、自分は「まことのぶどうの木」に繋がる一枝として働いているのだ、というように自分のことを捉えています。このように自分を位置づけなら歩みを進めていくことが、私が、決して楽ではない日々を生き抜くための糧になっていると言っても過言ではありません。

ところで、イエスさまのこの話では、「農夫」と「ぶどうの木」と「ぶどうの枝」の関係についての話題は出てきますが、「ぶどうの枝」どうしの関係については特に触れられていないようです。しかし、この「ぶどうの枝」は直接的には弟子たちを指していますので、もとより複数形です。5節の前半の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という箇所は、ある英訳聖書では「I am the vine; you are the branches.」となっています。イエスさまが天に昇られた後、地に残された者たちにしてみれば、この「ぶどうの枝」どうしの関係が問題になることはむしろ自然なことではないかと感じます。このことについても少し考えてみたいと思います。

実際、私たちはこの「ぶどうの枝」どうしの関係、普通の言葉でいえば「人間関係」において、大小さまざまな悩みを覚えることが非常に多いのではないでしょうか。話が飛ぶようですが、パウロが各地の信徒たちへ宛てて書き残した膨大な書簡が、新約聖書の後半に収められています。不勉強かつ信仰の未熟な私にはなかなか内容を理解することが難しい書物ですが、あのような書簡も、見方によっては、パウロがまさに「ぶどうの枝」どうしが引き起こす「不協和音」に心を痛めながら書かれたものだ、と捉えることもできるのではないかと個人的には思います。

どちらかと言えば都会育ちの私は、あまり実際のぶどうの木や枝を間近で観察した経験がないのですが、ぶどうの木になるべく多くの果実を実らせるためには、枝を適切に剪定することが大事だと言われています。このことはイエスさまの時代にも広く知られていて、だからこそイエスさまは、父なる神さまのことを、実を結ばない枝を取り除く「農夫」に譬えられたのです。ぶどうの木を手入れせずに放っておいたら、枝どうしの「競争」はそれだけ熾烈なものになるのでしょう。

自分たちが「枝」で父なる神さまが「農夫」だと考えると、つい反射的に、「自分は良くない枝として剪定されてしまうのではないか」という不安を覚えてしまいますが、イエスさまは何も、ここで弟子たちを不安にさせるためにこのような譬え話をされたのではないでしょう。むしろ、4節にあるように、「わたしにつながっていなさい」と弟子たちに命じられていることがとても大事なのだと思います。実際のぶどうの枝に意思があるのかどうか分かりませんが(多くの人がそもそも植物に意思なんてものはないと考えるでしょう)、ここで話題になっているのはもちろんそんなことではなく、「ぶどうの枝」に譬えられた弟子たち、ひいては私たち一人ひとりの、イエスさまに対する態度の問題です。私たち一人ひとりがそれぞれに独自の意思を持って生きていることは言うまでもありません。つまり、「わたしにつながっていなさい」というイエスさまの御言葉に従う意思が私たちにあるかどうか、このことがここでは試されているのです。

「枝」と「枝」が直接繋がることは、あるいはできないことかもしれません。しかし、それぞれの枝が、イエスさまという「まことのぶどうの木」に繋がっていること、これはできることだと私は信じています。「まことのぶどうの木」を取り巻く環境は、必ずしも常に平穏ではありません。強い風が吹き、枝が吹き飛ばされそうになることもあるでしょう。また、せっかく実らせた(あるいは実りつつあった)ぶどうの果実が、嵐に巻き込まれて地に叩き落とされてしまうこともあるでしょう。

それでも、本当に困難なとき、私たち「ぶどうの枝」のほうが、しっかりと「まことのぶどうの木に繋がっていよう」と強く思い、腕に力を込めて必死でしがみついていれば、イエスさまは必ず、そのことに気づいてくださり、強い力で私たちを握り返してくださるお方だと私は信じます。そして、そのようなイエスさまの愛によって、「ぶどうの枝」は再び果実を実らせることができるようになるのだ、ということを私は信じます。これこそが、イエスさまがただのぶどうの木ではなく、「まことの」ぶどうの木であると自らをお呼びになることの理由でもあると思います。

イエスさまはまた、かつて別の時に、「敵を愛しなさい」とも教えられました(マタイによる福音書5:43-48など)。何の取っ掛かりもなく敵をいきなり愛するなどということは、私たちにはまずできないことです。イエスさまの教えの中でも、正直言ってなかなか難しいものの一つだと私自身、日々痛感するものです。しかし、もし、自分自身もその「敵」も、「まことのぶどうの木」に繋がっている、互いに対等な一枝一枝だとしたら、どうなるでしょうか。今すぐ敵を愛することはできなくても、お互いがイエスさまという「まことのぶどうの木」に繋がっていれば、いつか、イエスさまを仲立ちとして、赦し合い、愛し合うことのできる日が来るかもしれない、という希望を捨てずに生きていくことができるのではないかと思います。

ヨハネによる福音書に収められたイエスさまの最後の話は、その場面の悲壮さにもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、弟子たちを、ひいては21世紀に生きる私たちをも勇気づける言葉に溢れています。今日の箇所にはこうあります:

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている」(15章3-4節)。

そして、イエスさまは、より後ろの箇所で、この最後の話をこんな言葉で締めくくられています:

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16章33節後半)。

ご一緒にお祈りします。

天にいらっしゃいます父なる神さま、今朝はあなたが地上にお遣わしになったひとり子であるイエスさまの、「わたしにつながっていなさい」という言葉に、皆様と共に触れることができました。感謝いたします。どうか私たち一人ひとりが、この言葉に応え、まことのぶどうの木であるイエスさまに繋がって生きていくことができますように、私たちを整えてください。なかなか赦しあうことのできない私たちを、どうかあなたが赦してください。嵐のさなかで傷ついた一枝一枝のことを覚えます。どうかあなたが傷ついた人々に御手を差し伸べ、力を与え、癒しを施してくださいますように。言い尽くすことのできない感謝と願いを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。