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特別伝道集会《ラテン音楽演奏会“故郷を奪われた人々と音楽”〜キューバのリズムを中心に》お話

特別伝道集会《ラテン音楽演奏会“故郷を奪われた人々と音楽”〜キューバのリズムを中心に》お話

2018.10.21
槙 和彦

 皆さま、こんにちは。この演奏会でピアノを弾いております槙和彦と申します。ここでお時間をいただきまして、自己紹介を兼ねて少し長めのお話をさせていただきます。今日いらしていただいている方には、私のことをすでにかなり詳しくご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、それでも、今日のお話は新しい内容になるのではないかと思っています。これまで、こういう話を、このように文字に纏めたこともなければ、誰かに纏まった形でお話したこともありませんでしたから。

 私は普段、ウィークデーは会社員として働き、週末はラテン音楽を演奏したり、日曜日にこの代々木上原教会に通ったりして生きています。教会では日曜日の朝に皆で集まって礼拝を行うのですが、この礼拝で私がオルガンを弾くこともあります。ラテンのピアノを弾きながら教会のパイプオルガンも弾く、という人は、少なくとも日本ではかなり珍しいのではないかと思います。

 今日ここで自己紹介代わりにお話させていただきたいのは、私のこれまでの半生――そろそろ、半生と言っていい歳になったと思います――における大きな「三つの出会い」についてです。三つの大きな出会い。それはつまり、ラテン音楽との出会い、妻との出会い、そして教会との出会いです。今、何故この順番で申し上げたのかというと、実際に、出会いがこの順番でやってきたからです。さっそく順番にお話しいたしましょう。

 私は、いわゆる習い事として、ピアノを4歳から18歳まで習っていました。ハノンやツェルニーのような練習曲が嫌いで、曲を弾くのは好きだけど練習はあまりしない、決して良い生徒ではありませんでした。よくお分かりの方も多いかと思いますが、習い事で弾くピアノというものは、普通は独奏、つまり一人で弾くということがほとんどです。今から思えば、この独奏というのが、必ずしも私の性に合ってはいなかったのだ……と思います。とはいえ、嫌になって途中でやめるということはなく、高校卒業までこの習い事は続きました。

 一方、高校と大学で、私は吹奏楽部に入りました。吹奏楽には基本的にピアノというパートがないので、打楽器を担当しました(特にティンパニや、木琴・鉄琴など、音程のある打楽器を担当することが多かったです)。この吹奏楽の活動を続けるうちに、「みんなで一緒に音楽を作る」ということが楽しくなってきました。これはピアノ独奏では得られない喜びでした。自然の流れで、大学の吹奏楽部を引退した後、その仲間を中心に新たにバンドが結成されました。そのバンドで私はピアノ・キーボードを担当し、ディキシーランドジャズやら、東京スカパラダイスオーケストラのカバーやら、様々なジャンルの音楽に雑食的に挑戦しました。その中でも、私にとって最も難しく、しかし最も魅力的だったのが、いわゆるラテン音楽というジャンルでした。「熱帯ジャズ楽団」という日本のラテンジャズのビッグバンドが、当時、吹奏楽ファンの一部から注目を集めていたのですが、この私が参加したバンドでも、この熱帯ジャズ楽団の楽曲を含め、ラテンの曲を何曲か演奏しました。

 このラテン音楽というのが――今日ご披露しているのも正にこのラテン音楽ですが――明らかに他の音楽と「仕組み」が異なりました。譜面通りに弾くのがまずもって難しいし、さらに、仮に譜面通りに弾けているように感じても、なかなか様にならないのです(ラテン音楽の用語を使って言えば、なかなかSabor、すなわち「味」がうまく出せなかった、ということです)。しかし、そのことが逆に、この音楽は面白い、やめられない、と私に思わせるように働きました。このときから数えて、私はかれこれ19年近くラテンのピアノを曲がりなりにも弾いてきたことになります。そんなに長い時間が経ってしまったなんて、まったく実感がありませんが……。ともかく、これが第一の大きな出会い――ラテン音楽との出会いでした。

 さて、この吹奏楽部OB・OGによる雑食バンドは京都で活動していたのですが、複数のメンバーが京都から離れることになり、ラストライブを行った後にバンドは解散。これが2003年のことでした。私は栃木の実家に戻り、そこから埼玉や東京での仕事に通う生活が始まりました。その頃の東京では既に、ラテン音楽を演奏する愛好家の人たちが、かなりの数、活動していました(今もその数は増え続けているように思います)。私もそのようなバンドの一つで活動していたのですが、ある時、具体的には2007年春のことですが、あるサルサバンドのピアニストが脱退するので、「後釜」を探している、という話がやってきました。これは良いチャンスだ、新しい挑戦をしてみようと思い、私はこのサルサバンドに新たに参加することを決めました。このバンドのフロントでコーラスを務めていたのが、何を隠そう、今の私の妻である加奈子でした。第二の大きな出会いです。

 このサルサバンドは、事情により、2007年の終わりに早くも解散してしまいましたが、それでも、11月に最後のライブを行うことができ、私も加奈子もこのライブで演奏することができました。これが私と加奈子が同じステージに立った初舞台です(このときはまだ、お互いに一バンド仲間というだけの関係でしたが)。これももう11年前のことになります。ラストライブの後、ほどなくして私は加奈子と付き合うようになりました。

 ところで、この頃、私は会社で任される仕事が急に難しくなり、また慣れない英語を使う業務が増えてきたこともあり、自信を失いかけ、精神的にきつい日々を過ごしていました。このとき助けになったのが、人生の先輩でもあった加奈子でした。加奈子は英語が堪能だったということもあるのですが、それよりもはるかに大きかったのが、加奈子がクリスチャンであったということです。それまでの私は、特に宗教心らしい宗教心は持っていませんでした(仏教や神道を心から信じているわけでもなければ、無神論者でもありませんでした)。加奈子が私に教えてくれたのは、私なりに要約すれば、「人間を心から信じるといつか必ず破綻する。心から信じるなら神様にしなさい」ということでした。

 このアドバイスは非常に私の心に沁みました。「人間は誰しも、完璧ではない」というありふれた言葉が、分かったつもりになっていても、実際にはちっとも分かっていなかったのだ――そう思いました。言われてみれば、それまでの私はしばしば、自分の尊敬する人や、会社の上司や、ときには加奈子やらを、心から信じ切っていました。また、私自身を信じることにより、却って私自身によって裏切られ、失望するということもまた、しばしばありました。それまでの人生の中で、何度かとても精神的につらい経験をしてきたのですが、その大元の原因は、私が(自他を問わず)人間を信じてしまっていたからだということに、この加奈子のアドバイスのおかげで気付くことができたのです。

 こうして私は第三の大きな出会い、すなわち教会との出会いを遂げることになりました。第二の出会い、加奈子との出会いは2010年12月にこの教会で結婚式を挙げることにより成就し、第三の出会い、教会との出会いは、同じくこの教会で2011年11月にキリスト教の洗礼を受けることによって成就しました。このようにして今の私がここにあるというわけです。

 さて、本日のこの演奏会は、あくまで一般の皆様へ向けたラテン音楽のコンサートです。クリスチャン限定イベントでもなければ、教会への直接的な勧誘を目的としたものでもありません。そもそも、ラテン音楽というものはそれ自体、はっきり言って、キリスト教には直接の関係はありません(間接的には色々あるので、それは後半のステージ中で少しお話できれば、と思います)。しかし、私自身の中では、この三つの大きな出会いが分かちがたく結びついています。私はいつか教会で、ラテン音楽をきちんと演奏したいと思っていました。今日その思いがこのような形で実現できてとても嬉しく思います。

 キリスト教の礼拝では、最後に「派遣の言葉」というものを牧師先生から頂くことがあります。例えばこのようなものです。「平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい」。この言葉に表されるように、どこにいてどのような活動をしていても、教会から世界に派遣されて働いているという自己意識が私にはあります。第三者から見て、神様と関係があるように見えるかどうかはともかく、会社で働いているときも、ラテン音楽を演奏しているときも、教会内で働いているときも等しく、教会から派遣された一人として、ひいては神様という大木の一枝として、働いているのだ、と私はいつも思っています。もちろん、今この瞬間も……。

 ここまで、このような私のお話にお付き合いくださり有難うございました。このお話が、「なんでわざわざ教会でラテン音楽をやるんだろう?」という素朴な疑問の、一つの答えになっていればいいなと思います。今日、ご来場の皆様に改めて、心から感謝申し上げます。これからの演奏もどうぞお楽しみくださいませ。有難うございました。