「苦難は幸い? 」ルカ4:1-13 中村吉基

ヨブ記 1:1-22
ルカによる福音書 4:1-13

先週の灰の水曜日から受難節に入りました。灰の水曜日からイースター前日まで40日間。計算の得意な人は少しおかしいことに気がつくでしょう。今年の灰の水曜日は3月2日、イースターは4月17日です。前日まで46日間あります。6日余るわけです。実は受難節(レント)の日の数え方は6回の「日曜日を除く40日。主イエスは日曜日にお甦りになりました。ですから私たちは日曜日を「主の日」と呼んで、毎週イエスの復活を祝います。特に受難節は、主イエスが十字架の死に至る道行きを憶え、その苦難を偲びつつ、悔い改めながら過ごす期間です。

さて、最近では携帯電話・スマホなどを家に忘れてくると不安になる人がいるようです。いつも友達とつながっていないと落ち着かないという人もおります。そういう人は携帯の電話帳に一人でも多くの人の情報を登録しておくことで、安心するそうです。けれども、その中の友達にどれだけ心を許せるのかを問うと、それはさほどでもないかもしれません。登録されてあるだけで、ほとんど詳しく知ることのない人もその中にはいるのです。心を許すことが出来ないのには、あまり自分のことばかりを話したり、さらけ出すと相手に嫌われてしまうのではないか、という理由から当たり障りのない付き合いをしてしまうという人もいるようです。あまり自分のことばかり主張すると相手との関係がギクシャクしてしまうのではないかと不安になるのです。しかしうわべだけの付き合いをしていればこちらのほうが辛くなるばかりです。

こうして自分をさらけ出すことをやめれば、人間同士、壁が出来て行くのは当たり前かもしれません。いつまでたってもその壁はなくなりません。人は一人ひとり違っています。まずそれを知ることが大切です。自分と同じ思い、同じ意見を持っている人だからといって必ずしも通じ合えるわけではありません。むしろ自分と違っている人に接することによって自分の視野が広げられていくのです。心からさらけ出して話せる友を持ちたいものです。

たとえば服のセンスが似ているとか、経済感覚が同じとか、似たような境遇で育っているというようなことで友達と「合う」ことがあります。けれどもそれは所詮目に見えるところだけです。本当の友というのはお互いにピンチになった時に「どれだけ支え合えるのか」ということにかかってきます。そういう友が一人でもいたらよいのです。友達はたくさんいればいいというものではありません。友達が少ないことを卑下することはありません。心を通い合わせる、いい部分も悪い部分もわかり合える友が一人いればいいのです。そのためには自分から行動しなければダメですね。自分が変わっていかなければいけないのです。自分の窓を開けなければ、入って来るものも入って来ません。

今日の箇所にはヨブという人が出てきます。ウツというところに住む大富豪でした。彼の右に出る富豪はいないとヨブ記の1章に記されてあります。10人の子どもに恵まれていました。このヨブにも友達がいました。それより前に、サタンは、ヨブは正しい人だけれどもいざ苦しいことが起これば神を呪うだろうと、眼をギラギラさせていたのです。
しかし、神はヨブが正直で、潔い信仰者であることを知っていましたから、サタンが彼を誘惑することをゆるすのです。サタンは彼の財産を奪い、家畜を殺し、子どもたちを事故死させて家庭を破たんさせ、最後にはヨブを難病に陥らせてしまうのです。

けれどもヨブは神を呪うことなど決してしませんでした。そこに3人の友達が見舞いにやってきます。なぜヨブがこんな苦しみを味わわなければいけないのか、ヨブが何か悪いことをしたから神は因果応報というのか、ヨブが罪を犯したから、神は裁きを行なったのだと友達は考えたのです。ヨブが何か罪を犯したからこそ、それに気づいていないかもしれないけれども神はそれに対して苦しみを与えたのだ。そういう友達の説得にヨブもいろいろと思いめぐらしました。正義と公平の神が、悪事を行なった者に対して裁きを行なうことは知っている。自分は神が裁かれることに対して何ら不平不満はないけれども、いったいなぜ自分が裁かれなければならないのか、その理由を知りたい、このままでは納得がいかないヨブでした。

ヨブは大きな苦難に見舞われましたが、理由が判るのならば、それに耐える力も生まれると考えていました。つまり、自分がしたことを償うのならば、ハッキリとした理由があるわけですからそれなりに忍耐していこうと思っていましたが、ここではまったく思い当たるふしがありません。だから余計にヨブは苦しかったのです。

「なぜだろう、なぜだろう」と彼はずっと自問していたに違いありません。

ヨブは3人の友達が言ったことを受け入れられず、遂に仲たがいをしてしまうのです。その3人の友達との議論の後、エリフという人が、ヨブに教えるのです。神は大いなる存在で、正しく、全能であるのに対して人間は儚く、限界のある小さな存在であるということを伝えたのでした。

ヨブ記の38章からは、神が嵐の中からヨブに語りかける場面が出てきます。神ご自身が世界を創造されたけれども、ヨブは何を知っているのか、と問われるのです。ヨブは神のことについては良く知っている自負がありました。しかし、実は何もわかってはいなかった。何も知らない者であったことに気づかされます。全能の神の光に人間が照らし出されると、自分が浅はかで、小さな存在であることが映し出されますが、まさにこの時のヨブも同じでした。そして最後の42章には、ヨブが灰をかぶって神のもとに立ち返る場面が描かれています。

私たちもヨブのように「なぜだろう、なぜだろう」と問うことはないでしょうか。
苦しみや悲しみや病を負った時に私たちは一生懸命にその理由を探ろうとします。
最初はヨブも納得できませんでした。自分は神のみ言葉に従って生きてきたのにどうしてだろう。そして周りに目を向ければ他にも悪いことをしている人たちが何の苦しみを受けることなく生きているではないか……。そんな不公平感も感じていたのです。

ヨブの物語を通して、私たちが教えられるのは、実は敬虔な信仰者の物語の裏にある人間の驕り、高ぶりです。苦難の意味を神に問うようでいて、実は自分の信仰や知識の深さや知恵というものを楯にしている人間の姿が浮かび上がってきます。そのような人間が神とともに生きる生き方へと方向転換(悔い改め)した時に、今この時点で苦難の意味が解明されなくても、神は休むことなく私たちを守ってくださっていることを知るのです。私たちは母鳥の翼のもとに隠れる雛のように神がいつも共にいてくださることを実感することができるのです。苦しみ、悲しみ、病などは何か罪を犯した見返りとしてあるのではありません。詩編の作者は言いました。

結局、苦しみにあったことは、この上ない幸いだったのです。おかげではっきり目をおきてに向けることができるようになりました」(119:71 私訳)。

最後にヨブは神が自分の主であり、正義を行なうお方であることを信じました。決して自分の苦難に対して納得のいく答えが与えられていたわけではなかったことでしょう。しかしこの時、ヨブは神に委ねて行こうという信仰が与えられました。私たちも毎日の生活の中で理解不可能なことをたびたび経験します。そのことを通して因果を考えるのではなく、いつかは神のもとに明らかになることを信じつつ、神に委ねていく信仰が与えられたいものです。あの2000年前、自分の主と信じたイエス・キリストが十字架で無惨に殺された時、弟子たちや主イエスを信じ従ってきた人たちは「なぜ? どうして?」主が殺されなければならなかったかを問い続けました。その中で、十字架に苦しめられた主が、私たちの苦難をも一緒に担ってくださるだという信仰に導かれていきました。私たちも私たちを愛し続け、救い主をこの地上に送ってくださった神を知る時、大きな神の力を、光をいただくことができるのです。

ヨブの子どもたちがいのちを取り去られた直後に彼が語った言葉を今日は心に刻みましょう。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。(1:21-22)

創世記によれば、人間は土のちりから造られたとあります。私たちは、ちりのような「はかない」「小さな」存在です。決して高慢になることなく、謙虚に過ごして行けるよう、祈りをもってこの受難節の信仰の「旅」に出かけましょう。