「イエスにつながろう」ヨハネ15:1-10 2022/01/30 中村吉基

イザヤ書27:2−6;ヨハネによる福音書15:1−10

今日の箇所で主イエスはぶどうの木を用いてたとえ話をしています。美味しいぶどうを豊かに収穫するために、思い切って枝葉を切ることがあります。花も同じですね。チューリップでもカサブランカでも、良い球根にするために、花が咲いたところで切ってしまいます。私たち素人が見るとせっかく花を咲かせたのにもったいないという気持ちになりますが。2節のところにもこう書いてあります。

  わたし(イエス)につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父(神)が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

農園の主人である神は、主イエスにつながっている私たちを放っておくことはありません。枝も葉も伸び放題のままにはされません。それは良い実を結ぶために、「いよいよ豊かに実を結ぶように」そこでせっかく育ってきた枝葉をバッサリ切ってしまうのです。私はカナダに初めて行った時に、現地の牧師から車中で、カナダは素敵な家具の生産されておりますが、厳しい冬をいくども耐え忍んだ木で作った家具は、とても強靭で良い家具ができるとお聞きました。私たちが神にバッサリ切られてしまうのは痛いですし、怖いですし、厳しいことかもしれません。しかし主イエスを信じる者(キリスト者)の生活というのは、楽をし放題で、締まりのない、ダラダラしているような生活ではないのです。

私たちの人生にはたくさんの苦難が待ち受けています。私たちが生い茂らせてきた枝葉………それはこれまで一生懸命勉強してきたことが無駄になったり、財産だとか、積み重ねてきたものや蓄えてきたものを一気に失ったり、それは不幸なことですし、本当に私たちを凹ませてしまうようなことです。しかし、私たちは心のどこかで「失う」ことに強くならなければなりません。人生の中には失うこともたくさんあるのだと、そう自分に言い聞かせなければなりません。

ある時主イエスは言いました。

「(わたしは)失われたものを救うために来た」(マタイ18:11)

「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」(ルカ17:33)

失うことを恐れている人は、何かを得ようとはできません。

主イエスが今日の箇所で「いよいよ豊かに実を結ぶように(神が)手入れをなさる」と言われたのは、将来私たちが多くの収穫を手にすることができる。そのような奇跡を神は起こしてくださいます。

さて、皆さんはイエス・キリストという幹につながっている枝の一本です。

幹から養分がすべての枝に行き渡っていのちが保たれています。主イエスはどんな時にも皆さんを愛してくださっています。主イエスに愛されているという実感が皆さんを「イエスにつながっている」という意識を持たせます。当たり前のことですが、私たち枝が枯れてしまっても、幹は枯れません。しかし幹が枯れると枝も枯れてしまいます。私たちは洗礼を受けた時に、主イエスから永遠の命をいただきました。主イエスのいのちが今この時も私たちの内に生きているのです。主イエスとの関係が絶たれた時、私たちは信仰を失います。主イエスと一心同体になって生きていくのが私たちの信仰です。自分はああしたい、こうしたいと私利私欲まみれで主イエスに従うことができません。そのためにこうも言われています。10節の後半です。

    あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

私たちは教会で礼拝している時には主イエスに心が向かっていても、なかなか自分の普段の生活の場に戻ると主イエスから心が離れてしまっているような気持ちがしたことはないでしょうか。私たち人間というのはいつも「絶対に……」ということはないのです。良い時があれば、悪い時もありますから、主イエスにまっすぐ心を向ける日もあれば、そうでない日もあるのです。

でも安心していいのです。その前の4節のところにこう記されてあります。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。そうです。主イエスのほうで私たちの手を「ぎゅっ」と握っていてくださる。そのあとにこう書いてあります。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。私たちのほうで何か意図的にではなくても、その手を離してしまうことがあります。しかし、主イエスは手を決して離されないのです。こうして私たちは主イエスにつながることをゆるされています。

さて、私たちはどうしたら主イエスにつながり続けられるのでしょうか。主イエスが手を離されないならそれで良いのでしょうか。私たちがもっと豊かに実を結ぶようになるために、日々祈り、聖書に親しみ、そして主イエスの教えを普段の生活の中で生かしていくことも大切でしょう。しかし最も主イエスとつながる最善のことは今私たちがしております「礼拝」を捧げることです。主イエスが私たちに手を差し伸べてくださり、私たちはその手をしっかり握り締めるこれこそが礼拝の喜びです。礼拝において私たちは主イエスに出会うのです。「礼拝」は義務のように何かの講演会とか例会のようにやって来るものではありません。私たちが週の初めの日にまず主イエスに出遇い、神を拝む、それが礼拝です。

主イエスの掟を守るならば、主イエスの愛にとどまることができると主イエスご自身が宣言してくださっています。「掟」という言葉はなかなか普段使い慣れていない言葉ですが、これはみ言葉という意味です。聖書の言葉、神の言葉です。主イエスが私たちに教えてくださったことを「掟」として守る時に、愛にとどまることができるというのです。ただただ耳だけで主イエスのみ言葉を聴くだけでは、主イエスの幹から養分をいただくことができません。私たちの生活の中で、み言葉を守り、み言葉に促されて行動するときに、はじめて私たちは実を結ぶことができるのです。今日の箇所から私たちが学ぶことの一つは、「聴くだけで」終わってしまっていないか、ということです。クリスチャンの信仰生活は行うことです。ヤコブの手紙1章22節は、

    御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

と私たちに教えています。けれども、実行するということはそう簡単にできることではありません。しかし、私たちは主イエスという幹につながっていくときに不可能なことでも可能になるのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする