「解放とゆるしと自由と」ルカ4:14-22 2021/01/23 中村吉基 

旧約聖書:ネヘミヤ記 8:1-3,5-6,8-10 1
新約聖書:ルカによる福音書 4:14-22

私たちは、日曜日ごとに集まって礼拝を捧げ、その中でみ言葉に聴いています。また、毎日家で聖書を読んでいる人も居られると思いますが、そのことにどんな意味があるのでしょうか。聖書は古代ユダヤの精神風土、文化、歴史的背景のもとで1500年以上にわたって書かれたものです。その中には歴史書、諸文学、大小の預言書などそして今日わたしたちが聴きました福音書やパウロの手紙などの書物がありますが、私たちがいつでも聖書を紐解いて規則正しく読んでいるのは、すべて歴史を知るための書として、私たちはイエス・キリストという人物が2000年前に「存在していた」ことを知るために、このような営みを繰り返しているのでしょうか。そうではありません。

私たちは昔話を読んでそこから歴史の勉強をしているのではないのです。福音は英語で“Good News”と言いますが、文字通りこれは私たちにとっての「ニュース」、現実のこととして神が私たちに語りかけてこられるのです。私たちは例えばテレビで時代劇などを見る時と、報道番組を見る時とでは「違った視点」で見ていることでしょう。ただただストーリーを追ってみているドラマとは違い、ニュースは実際に私たちに身近なところで起こっていることを伝えていますから、自分に関わることの問題意識を持って見ることでしょう。

たとえば天気予報ひとつをとってもそうです。最近は世界の天気予報もやっていますけれどもあまり関わりのない地方の天気までは気にして見ることはないでしょう。自分の生活している場所の天気をまず見る。それと同じように私たちは聖書から活きた神のみ言葉を今、ここで受けています。聖書の言葉は神が私たちにどのようなことをしてくださったのか、あるいはしてくださるのかということを伝えているのです。“Good News”と言われる所以はここにあるのです。そして今日も神は私たちに聖書の言葉を通してメッセージを語り、私たちに呼びかけておられます。ですから礼拝のときに、あるいは自宅で一人になって聖書を読むときに神は絶えず私たちに語りかけておられるのです。そのことに私たちは気づかなければなりません。

今日の箇所にある場面は、主イエスがユダヤの世界に初めてあらわれる様子を伝えています。ちょっと皆さんの心の中で想像してみてほしいのですが、もし2000年前に私たちがこのユダヤ世界に生きていたら、そして当時現れたイエスというお方のメッセージをどのように受けとめることができたのでしょうか。  

初めてイエスに会って、あるいはある人たちはイエスという男の噂を耳にしていたことでしょう。そしてそのメッセージを聴きに集まってきました。私たちと違うことは目に見える存在としてイエスというお方がそこにいて、そして生のメッセージを聴くことができた、ということです。

やがて大勢の人がイエスの行くところ行くところに集まってくるようになって、一躍彼は「時の人」になったわけです。しかし、実際にイエスの教えに耳を傾けていても、イエスというお方に傾倒し、自分の人生をイエスの教えに従って生きる、主イエスに従って行った者たちの中には、自分の仕事を捨てて、家族を置いていた者もおりましたが、それはごくごく少数の者たちでした。もしかしたら現代に生きている私たちもその少数の者たちにはついていくことができないかもしれません。

40日の間、荒れ野におられた主イエスは安息日に会堂(シナゴーグ)に入り、会堂は人びとの魂の中心の場所でした。会堂の入り口はエルサレムに向かって開かれていました。キリスト教では太陽の昇る東の方向――エルサレムを指すと考えられますし、太陽が昇るごとくに復活をしたキリストを礼拝する喜び――に向かって祭壇を置く伝統があります。日本の狭い土地に立つ教会堂では塔の十字架だけが東を向いている教会もあります。東はちょうど朝の礼拝しているときに陽が差し込んでくるというメリットもありました。これが正しい方向に向かうといった意味合いから「オリエンテーション」という言葉にもなりました。

会堂では私たちが旧約聖書と呼んでいる中にある律法や預言書が朗読され、その解釈が告げられていました。そして賛美をし、感謝と願いの祈りをささげる礼拝(これが私たちの礼拝の基にもなっているわけですが)なされていたわけですが、当時のメッセージをする人は特にラビだけというわけではなくて自由に選ばれていたようです。そこで主イエスはイザヤ書の巻物を手渡されて朗読をするために立ち上がって壇のところまで行くのです。今日の箇所では、立ち上がった主イエスが実際にそこを朗読したのかどうかがわかりにくいのですが、ここを「朗読した」とおそらく意訳した聖書もありますし、通常の流れから言えば朗読したのでしょう。もし朗読していなければそれはとても異例のことですから福音書記者であるならばそこをはっきりと記したことでしょう。

さて主イエスが朗読されたのは、イザヤ書58章や61章でありました。今日聴きましたルカの4章の記述で読みますと、18-19節のところです。

18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」

会堂に集っていた人たちが良く知っているイザヤ書の言葉でした。ですからこの箇所に特別に注意を払っていなかったかもしれません。しかし会堂にいた人びとの様子を今日の箇所はきちんと描いています。次の20節後半で「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあります。その理由については箇所ではわかりません。しかしその時主イエスの口をついて思いもよらない言葉が出てくるのです。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)

これまでも会堂でイザヤ書を朗読した人が、これから来られるメシアについての希望を語ることがあったでしょう。そして自分がメシアだと語った人もいたかもしれません。しかしそのような嘘をついても化けの皮はすぐに剥がれ落ちたことでしょう。この主イエスの言葉はイザヤ書を解説するものではなく、明らかに救いの「宣言」をしたのです。ではいったい何の宣言をしたのでしょうか。もう一度18節のところから読んでみましょう。

18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし19 主の恵みの年を告げるためである。」

救い主・メシアの使命は貧しい人に(ここでは虐げられている人と言ったほうが良いかもしれませんが)良きニュースを伝えるために神が任命され(油を注がれた者=メシア)、そして救い主は捕らわれている人を解放し、目の見えない人には視覚の回復、そして圧迫されている人には自由を与えてくださる、と言うのです。

ここで少し構造的なことを申しますが、おそらく主イエスが会堂で読まれたのは61章の1-2節であっただろうと推測されます。しかし主イエスの言葉にはイザヤ書58章の言葉が挿入されています。聖書の箇所の18節の終わりに太字で下線を引いてあるところです。ここは主イエスが付け加えたのには理由がありそうです。実は18節で(捕らわれている人に)「解放」をという言葉が使われています。そしてこの付け加えられている(圧迫されている人を)「自由」にし、とあるこの「解放」と「自由」という言葉はギリシア語ではまったく同じ言葉(アフェシス)なんですね。ですからこの「アフェシス」は今日の箇所のキーワードになる言葉です。「解放」「自由」そして他の箇所ではその多くが「ゆるし」と訳されています。

それでは「解放」とは何でしょうか? 皆さんは普段どんな時に「解放(感)」を味わうでしょうか。さまざまにとらわれていることではないでしょうか。仕事や義務などを思い浮かべないでしょうか。しかし主イエスが生きた当時の、あるいは旧約のイザヤの時代に生きた人たちはもっともっと重いものから解放されるという宣言を耳にしたのです。それは政治的な抑圧、重い税金、民族差別……、この時代にもあります。性差別や外国人差別やいろいろな抑圧のことです。つまり「解放」とは他人から受けた圧迫からの解放です。そして「ゆるし」とは自分の犯した過ち、罪、失敗から解放されることです。どちらも苦痛を伴います。他人から差別されることも苦痛ですし、自分の犯した罪に打ちのめされるのも苦痛です。差別はまったく自分には過失はありません。しかし罪を犯すのは自分の過失です。それから「自由」になるのに同じ言葉が使われているのは神がイエス・キリストという救い主を通して一切合切の私たちの捕らわれ、首を絞めているもの、足かせになっているものから解放してくださるのです。

そして今日の主イエスの宣言は今ここにいる私たちも「解放」され、「ゆるし」を与えられそして「自由」になる、という私たち一人ひとりへの呼びかけなのです。このことに今、気づくことが求められています。神の救いを現代において宣言し、そして人と人とを結びつける使命を与えられているのが教会です。教会には自分の場所をもとめてさまざまな人々がやってきます。自らの救いを求めてきます。そしてそこで力を得た者がそれだけにとどまらず、社会に向けて、他者のために働くように変えられていくのが教会の本質です。

神学者D.ボンヘッファーは第2次大戦中にナチス・ドイツによって39歳の若さで処刑されましたが、彼は「教会は、他者のために存在する時にのみ教会である」という言葉を遺して死にました。教会に来たばかりの人が、自分の救いを求めてやってきたその人が、誰かほかの人のために働きたいなどと思わないことのほうが多いでしょう。私がよく耳にする言葉です。「自分のことだって出来ていないのに、他人のことなんて出来るわけがないでしょう……」。しかしそういう人でも教会の中で生かされていくうちに、他者が自分のことを必要としてくれている。そして神が自分を必要としてくれていることにやがて気づくでしょう。今、心の病を持つ人々は多くの教会の門を叩いています。そして日本の年間の自殺者は2万人を超えています(2020年)。2019年までは減少していたのですが、コロナ禍になってまた増加していまして、特に女性に自死をする人が多いのだという調査が発表されています。教会が一人ひとりを受け入れる「受け皿」となる意義はますます深まっています。

最後の22節のところにはこう記されています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」。私たちも救い主イエスを仰ぎながら、主イエスと共に教会を通して解放とゆるしと自由を宣言するわざに参与できるように祈りましょう。

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