三位一体後第13主日礼拝
三位一体後第13主日礼拝 10:30 司会・説教 廣石 望 奏 楽 原田由加 前 奏 (黙祷) 招 詞 (ハバクク2,20) 讃 美 歌 51「愛するイエスよ」 交 読 文 詩編84編(「交読文」p.25) 旧約聖書 出エジプト記24,3-8 (旧p.134) 新約聖書 マタイによる福音書26,26-28 (新p.229) 祈 祷 説 教 「多くの人のために」 祈 祷 讃 美 歌 422「主よ、この時代に」 献 金 主 の 祈 93-5 頌 栄 29「天のみ民も」 祝 祷 後 奏
- 教会学校 9:00〜 「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15,12)鈴木伶子
本日礼拝後
- 特にありません。
今週の集会
- 祈り会 お休み
次週(9月1日)予告
- 三位一体後第14主日礼拝 10:30〜
聖書:ローマの信徒への手紙8,9-17
説教:「霊と命」廣石 望
- 教会学校 9:00〜 「神に愛されている子ども達へ」(エフェソ5,1)土田潤子
- オリーブ会 9:40-10:00
- 定期役員会 礼拝後〜3時 会議室A
今後の礼拝・集会予定
- 9月より通常の教会活動を再開します。
- 9月8日 関田寛雄牧師の説教
- 9月22日 教会カンファレンス
- 9月29日 大掃除・防災訓練
牧師室から
「信仰は、困難を乗り越えるために必要だ」という考え方がある。たしかにそうも言える。〈苦しい時の神頼み〉はしないよりも、うんとするのがいいと思う。
それでも「神」を、私たちの足りない部分の〈穴埋め〉役に限定するのはどうかと感じる。欠陥をとりのぞいてもらうことでなく、溢れんばかりに与えられる経験から信仰は生まれるからだ。
イエスが荒野で5,000人の群衆に食べ物を与えたという奇跡物語がある(マルコ5,30以下)。最後には「すべての人が食べて満腹した」のだが、それだけではなかった。パン屑と魚の残りを集めると「12の籠にいっぱいになった」という。つまり必要「以上」に満たされたというのがポイントだ。神がイエスを通して与えるものは、私たちが求める必要を、いつもはるかに超える。
だから「信仰は必要か否か」と問うことは、どこか的外れなのである。信仰は、何もないところで神が私たちの生に――思いがけず、予想を超えて豊かに――与える〈良いもの〉に規定されて生きることだ。
イエスの到来も、人がそれを必要としたからというより、まったくの偶然だ。神の恵みは、人が期待することも思いつきもしなかった、つまりまったく無償のプレゼントである。それを(必然的に)受けとるに値した者などいない。
そして恵みを受けとることは、求めることの終わりではなく、むしろ始まりだ。信仰と希望と愛は、知るべきこと、夢見てよいこと、なすべきことを新しく悟るための力だから。(廣石望)