I
8月の第1主日は「平和聖日」と呼ばれ、多くの教会で聖餐式が祝われます。私たちの教会では、今年はつごうで第2主日に聖餐式を祝いました。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」「この杯から飲みなさい。これはわたしの血である」――そう、聖餐式のキリストはパンと葡萄酒を分ちながら言います。
聖餐式を祝うことは、どのような意味で「平和」と関係があるのでしょうか?
II
パンと葡萄酒は、どちらも古代地中海世界で最も基本的な農産物である小麦とブドウから作られた食べ物・飲み物です。日本で言えばお餅とお酒といったところでしょうか。なぜかお肉は出ません。出エジプトの荒れ野の民は「肉が食べたい」と指導者モーセに食ってかかったと伝えられていますが(例えば民数記11章参照)、当時の社会で、農村部で暮らす農民や都市の下層民たちは、私たちのように日常的に肉を食べる機会はなかったようです。パンと葡萄酒は日常的で質素な食べ物です。
パンは、私たちの日々の飢えを満たして力を与えます。そして葡萄酒は喉の渇きを静めるだけでなく、私たちの瞳を輝かせ、喜びを与えます。生きる力を強めてくれる。たんに喉が渇いているだけなら水が一番簡単なのですが、地域によっては手に入る淡水が必ずしも飲料に適さない場合があり、そうした地域では葡萄酒が飲まれたようです。もっとも古代の人々は、葡萄酒を水割りにして飲むのが通例でした。
使徒言行録に、エルサレムの原始教会のようすについて、次のような報告があります。
〔信じる者たちは〕家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた。(使2,46)
信徒たちは家庭集会を開いて――当時の教会に礼拝堂はなく、「家の教会」があるのみです――、いっしょに食事をしながら――これは後の聖餐式の原型ですね――神を賛美していた。しかもそのさい「喜びと真心をもって」(原文は「喜びと心のシンプルさのうちに」)そうしていた! パンと葡萄酒は私たちの命を保ち、これを強めるものであり、原始教会の人々は、この交わりの食卓を大きな「喜び」をもって祝っていたわけです。
III
さて現在のキリスト教、とくにプロテスタント教会の聖餐式に特徴的なのは、大きな喜びというよりは、むしろ真剣さ、神聖なまでの真摯さです。私たちの罪の贖いを達成するために御子キリストが支払った犠牲の大きさを思い、真摯な悔い改めと罪の告白が求められ、深い赦しの確信と感謝をもって聖餐式が祝われます。
これは福音書の「最後の晩餐」場面が受難物語の文脈に、つまりイエスの非業の死と弟子たちの裏切りという、悲しいストーリー展開の中に置かれていることが関係するのでしょうか? あるいは後のキリスト教会が、聖餐式を特別に聖なる儀式として、いわゆる愛餐からしだいに切り離し、聖餐が信仰者に与えられた大いなる恵みと使命を自覚する場所である一方で、愛餐は世俗的な喜びの延長にすぎないという位置づけを与えることで、自分たちの聖礼典を整えていったことに関係するでしょうか?
しかし「真剣さ」と並んで、使徒言行録もいうように、聖餐式にはもっと「喜び」の要素のあることが、つまり神に向かって心を高く上げ、共に喜ぶという要素のあることが望ましいと感じます。パンと葡萄酒は私たちの生を生き生きとしたものにするために、神が与えたものであるからです。イエスこそ、そのパンと葡萄酒であると聖餐式の制定の言葉は述べています。
昨日の土曜日、教会学校が「お楽しみ会」を祝いました。よちよち歩きのお子さんから大学生まで、これに参加しました。スタッフの皆さん、お手伝い下さった親御さんたちは本当にお疲れさまでした。子どもたちはプール遊び、スイカ割り、ランタンづくりなどのプログラムを楽しみました。私は夕食の時間から参加しましたが、あの大人が15人ほど座るとちょうどよい会議室Aに、なんと総勢30人ほどの子どもたちと大人たちが一堂に会して、お母さまたち・スタッフたちがいっしょに調理したカレーライスを食べたのです。一つのテーブルに5人ほど座った計算になります。
子どもたちの顔にも、大人たちの顔にも喜びが溢れていました。普段であれば毎週日曜日の朝に1時間半ほどだけいっしょにいる子どもたちが、半日という長い時間を共有したことの恵みでしょうか。皆が心から安心して、いっしょに食べ物を分かち合う喜びがそこにありました。
料理をお皿に盛り付けてくださる方々は、もちろん皆さん笑顔です。当たり前といえばそれまでですが、もししかめっ面でご飯をよそってもらうとしたら、かなり悲しいです。しかし皆さん、満面の笑顔。なんという平和!――キリストが私たちに命を分け与えるのも、こうした喜びに満ちた平和で私たちをつなぎ合わせるためです。
IV
それでも、「罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」という言葉は、イエスの死が、この世界に確かに存在する剥き出しの暴力の結果であることを、否応なしに思い起こさせます。
聖餐式の喜びの背後には、すべてを闇の中に塗り込めるがごとき巨大な死の力との、壮絶な戦いがあるのです。パンと葡萄酒にあって、十字架刑に処せられたキリストが私たちに現臨します。イエスが指しだす喜びの杯は、激高した群衆と冷血な総督ピラトによって血の杯へと転じられてしまった。死が喜びを押しつぶし、死が命の分かち合いにとどめを刺したかに見えました。
現在、中近東では同じイスラム教を信じる人たちの間で殺し合いが続いています。エジプトでは現政権の正統性をめぐって政治が安定せず、流血の争いが続いています。内戦が止まないシリアでは猛毒の化学兵器が、首都ダマスカス近郊で、子どもを含む一般市民に向けて使用されたらしいと報道されています。信じられない思いがいたします。
東北アジアも穏やかとは言えません。とくに海の領有権を巡って、日本を含む諸国の間に覇権争いがあり、各国は海と空の軍事力を増強しつつあるそうです。インターネットには、「もはや平和だけ語っていればすむ時代は過ぎた。ちゃんと準備すべきだ」という書きこみがあったりします。本気で、もう一度戦争をしようというのでしょうか? これまた信じられない思いです。
そして福島第一原子力発電所の事故がまったく収束しません。高濃度の汚染水が地下水を通して流れだしたり、急ごしらえの安普請で作られたタンクが水漏れ事故を起こしたりで、何百トンのも汚染水が海に流れ出たと言われています。自然界に放出された放射性物質の総計は「何十兆ベクレル」と推定されるとか報道されていますが、数字を聞いてもそれがどれほどのことなのか、私には想像もつきません。それでも、それが食物連鎖と生命連鎖を通して、やがて私たち人間を含む地球上の生命全体に甚大な害を与えるものであることは分かります。
こうして死が私たちをせせら笑い、死が私たちに君臨しています。――日々の比較的に静かな暮らしの中でも、私の力ではどうすることもできない悲しいできごとが降りかかってきたり、プレッシャーに押しつぶされそうになったり、将来への希望を失いそうになることがあります。大切な人々との関係が絶たれてしまい、孤立して生きざるをえない現実が社会の中にあります。
V
この死の支配が、私たちにとって最終的な決定事項であるとしたら、イエスの死は私たちの死以上でなく、彼の死は私たちに何ら特別な益をもたらすものではなかったことでしょう。
しかし福音は、別のことを告げます――「罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」。イエスの死は万人に命のつながりを回復し、神が万人と共にあることを(再び)可能にした救いのできごとであると。
イエスの受難は、この地上で生じるあらゆる暴力と殺戮に抗い、死の支配に向かって「否」を告げるものになりました。なぜでしょうか?
イエスは十字架の上で最後に絶叫して息絶えたと福音書は伝えています(マルコ15,37)。彼の心中に何があったのかは分かりません。しかし人類史の初めに、アベルが兄から殺害されたとき、「お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」と神は言います(創4,10)。それと同様に、イエスの血が叫ぶ声を神は聞いたことでしょう。そしてそのとき神は、もはや天に留まっていることができず、イエスの死の中に入って行った。神はイエスの死を共に苦しんだのです。だからイエスの死を通して、神の命がこの世界に溢れ出ることになりました。
キリスト教は、人間への愛のゆえに、自ら死の中にまで入ってゆく神を信じる宗教、この愛が私たちの闇の中に平和の光をもたらしたことを祝う宗教です。
VI
「罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」――パンと葡萄酒は私たちに喜びを返します。そして「罪の赦し」とは、不信感と断絶によって閉ざされてしまった神と人、人と人の間の生きた関係の回復です。「多くの人のために」とは、イエスの死の運命が――そこに神が共におられたことが、復活によって明らかになったがゆえに――万人に対する神の愛のあかしであることを意味します。そして「契約の血」とは、イエスの死を通して、死を乗り越えて永遠の命を与えるという約束を、つまり決して傷を受けることのない無限の命の輝きを人に与えるという約束を、神が実現したことの表現です。
聖餐式を祝う共同体は、この約束の実現を心を高く上げて、喜びと共に祝います。そのとき私たちは、互いがどんなに違う者たちであっても、もはや違うからといって恐れたりはしません。よく知らないからといって軽蔑したりしません。聖なる神がそこにおられるからといって、恐れたりもしません。この平和は、この世が与えるような、しばしば途方もなく長い工程表つきの幻想の平和とは違って、いますでに「味わい知る」ことのできる平和、神がイエス・キリストを通してすでに私たちのために実現された平和です。
それはマルティン・ルターが書いた讃美歌の一節に、次のように歌われている通りです。
Christe, Du Lamm Gottes,
der Du trägst die Sünd’ der Welt,
gib uns Deinen Frieden!
キリストよ、汝 神の子羊よ、
世の罪を担う者よ、
汝の平和を我らに給え!
(『讃美歌21』86番を参照)