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三位一体後第16主日礼拝

三位一体後第16主日礼拝

三位一体後第16主日礼拝 10:30

  司会・説教 廣石 望
  奏   楽 森 友紀

前    奏 (黙祷)
招    詞 (詩編124,8)
讃 美 歌  20「主に向かってよろこび歌おう」
交 読 文 イザヤ書40章(「交読文」p.44)
旧約聖書 出エジプト記12,1-20 (旧p.111)
新約聖書 ルカによる福音書13,20-21 (新p.135)
祈    祷
説    教 「腐ったリンゴと神の国」
祈    祷
讃 美 歌 430「とびらの外に」
献    金
主 の 祈 93-5
頌    栄 27
祝    祷
後    奏
			

 

  • 教会学校 9:00 「ノア物語」(創世記9,13)松原新吾

 

本日礼拝後

  • 全体会「牧師招聘について」 現状報告と意見交換(礼拝後に会堂で)

 

今週の集会

  • 祈り会 9月26日(水)10:30-11:30 会議室A。前回に続き、村上先生の解説によるボンヘッファーの「キリストに従う」をCDで聴いて共に祈ります。

 

次週(9月30日)予告

  • オリーブ会 9:40-10:00

 

今後の礼拝・集会予定

  • 9月30日(日) 陶山義雄牧師の説教、大掃除と避難訓練
  • 10月7日(日) 世界聖餐日、定期役員会
  • 10月14日(日) 教会カンファレンス

 

牧師室から

 最近、イエスの死を「犠牲」として描く幾つかの新約聖書のテキストについて、一般向けの小さなエッセイ原稿を書いた(次号『無教会研究』に掲載予定)。

 その冒頭で、東日本大震災における夥しい数の死者と被災者を「犠牲者」と呼ぶことの違和感についてふれた。「犠牲」という言葉は――「贖罪」ないし「代理死」であればなおさら――、いったい何のため、誰のための死なのか、何を償うための苦しみなのかという問いにつながる。しかも伝統宗教の〈苦難の神義論〉が通用性を失った現代にあって、誰もが納得できる一般的な答えはない。

 そのとき、〈死者との相生は、いかにして可能か?〉いう問いが頭をよぎった。しかし正面からとりあげることはできなかった。それでもテキストをあたる中で、イエスの死が救いをもたらすという理解を支える現実基盤は「復活」信仰だという予感は、ほぼその通りという心証を得た。

 例えばイエスの死を、〈ただ一度の死による決定的かつ包括的な犠牲であると同時に、あらゆる犠牲供犠の終焉〉として描く『ヘブライ人への手紙』は、キリストが「天そのものに入り、今や私たちのために神の面前に姿を現した」という(同9,24参照)。高挙は復活とひとつである。

 またパウロが、「神はキリストを宥めの供物として立てた」というとき(ロマ3,25参照)、「立てた」が〈公示/啓示した〉という意味であるなら、それは復活顕現への指示表現である。

 さらに「これはあなたたちのための私の体/血である」という聖餐制定辞は(1コリ11,24-25; マコ14,22-24参照)、犠牲獣の体を宿営の外で焼き捨てるユダヤ教の浄罪供犠とはまるで異なり、新しい食卓の交わりを創設している。

 〈死せるイエスが生ける霊になって、私たちの命の交流を支える〉という復活信仰は、そもそもの初めから、死者との相生への問いに対する答えだったのではないか。(廣石望)