聖霊降臨節一覧

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「新しいエルサレム」黙示録21:1-4.9-14 廣石望

ヨハネの黙示録が書かれたのは、紀元1世紀末、小アジアのエーゲ海沿岸地域。当時現地エリートは皇帝崇拝を利用し富を得ていた。黙示録の著者はそこに鋭い眼差しを向け「新しいエルサレム」という対抗的な神話を描く。地中海世界をすっぽり覆うばかりの立方体という形状、高価な貴金属でできた都市、食料も病の心配もない。また神殿も祭司もなく軍隊もない。住民全員が市民であり、住民全員が市民であり、かつ祭司だ。以上のヴィジョンは、現代の我々の世界とは大きく異なるが、当時の世界も同様にかけはなれていた。しかし黙示録の著者は絶望せず「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない」という真の世界を夢見た。我々も同様になっていたい。

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「少女よ、起きなさい」マルコ5:21-24a.35-43 廣石望

日本でコロナ禍の影響下で自死した人の数、ウクライナでの戦いなど、死が命をあざ笑っているかのようだ。今日はヤイロの娘の話を手がかりにイエスの命の守り方、復活信仰とは何なのかを考える。 ヤイロスに要請をうけて同行するイエスに次々と邪魔が入る。押し寄せる群衆、出血の止まらない女、そして当の娘の死、人々の嘲笑…しかしイエスはそれを乗り越えただ信じることを命じ、少女に起きなさいと言い、彼女は立ち上がる。現代に生きる我々も、その時代を生きる人々にも理解を超えることであるが、それを通してこの話ではすべてを新しくする「神の王国」の到来を現実化した。 ヨハネ福音書に記されたラザロの復活を読むと、復活信仰とは神の命を与えるイエスへの信頼他ならない。イエスが呼びかける声を聞き、今の世界に神の命から「生きる」ようになるとき、命をあざ笑う死の現実に、今ここで抗えると信じたい。

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「最後まで」ヨハネ15:9-21  中村吉基 

日本キリスト教団が8月第1日曜日を平和聖日としてから約60年、この時だけ平和について考えればいいわけではなく常に「平和を作り出す者」としての行動が求められる。最後の晩餐の時、イエスは弟子たちを友と呼び、主イエスが選んでくださったことを語られる。弟子たちの中には、あるいは現代を生きる我々の中にも、自分からキリストを求めたと言うかもしれないが、逆の見方で見てみると簡単にそれを棄ててしまうことができる危険性をはらんでいる。本物の信仰は、いのちの造り主である神に委ね、すべて神の選びによるのだと信じられるどうかにかかっている。一人 では至難の業であるが、教会がある。一緒に信仰を育み「最後まで」光の中を歩んでいくのである。

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「本当の豊かさとは?」ルカ12:13-21 中村吉基

イエスに相談に来た人にイエスは金持ちのたとえ話をする。金持ちが豊作すぎて倉に入りきらないという悩みである。そして彼は今ある倉を壊してさらに大きい倉をたてようと思いつく。しかし神は金持ちに愚か者という。そしてイエスは自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ、と続ける。金持ちの男は非常に自己中心的である。それは彼だけではない。私達とて自分の周りのことだけに執着していないか、苦しみからの脱却を求めて宗教に頼っていないか。苦しい時の神頼みではなく、順調な中で神と共に生き生かされいるのが私達の信仰である。本当の豊かさとは、倉をつくって貯め込むことではなく、喜んでだれかに差し出す中に与えられることであるとイエスは言われいてるが、それは2000年後の我々にも通じる言葉である。

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「あなたがたは神の家族です」エフェソ2:14-22 宮島牧人(原町田教会)

牛久に赴任になったのを機に通い始めた入管収容所。そこに収容されている人は、命の危険があるため国に帰ることもできず、難民申請をしているが認められず不法滞在者として収容される。しかも近年ますます厳しくなってきている。彼らを入管職員を犯罪者のように扱うが彼らは書類不備なだけで犯罪者ではない。しかも収容期間に終わりはない。そんな生活の中で収容者の絶望は深い。また通っていても無力さを感じずにはおれない。悪い結果が待っていても、仲間やみ言葉に励まされて、こんなに小さなわたしであっても神はまだ用いてくださると思うことができる。19節「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」。すべての教会は自分の国に来ている外国人に向かってこの19節を福音として伝える。「教会にどうぞ来てくださいあなたたちも神から生まれた神の子ども、神の家族だからです。」

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聖霊降臨節第8主日礼拝 2022/7/24

インターナショナルサンデー―—外国人の人権のために祈り、民族主義と平和を考える 本日の礼拝 旧約聖書:レビ記19:34新約聖書:エフェソの信徒への手紙2:14-22説 教:「あなたがたは神の家族です」宮島牧人(日本キリスト...

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「たった一つ、あったら良い」ルカ10:38~42中村吉基

今日はマルタとマリアの話である。教会生活が長いとどちらのタイプなどと話題になる。今日のマルタから省みなければならないのは、自分のしていることがうまくいかない時に他人にあたるような態度をにじみでてしまっているのではないか。また多くのことに思い悩んでしまっているのではないか。マリアが選んだ「良い方」とは「神の国をもとめること」である。つまり、主イエスが示してくださった愛が、自分の利益のためだけに使われることは本望ではありません。私たちは他者のために愛し、他者のために奉仕することである。しかし私たちは本当に弱さを抱えていますから、マルタのように忙しくなってしまったり、余裕がないときには、神のことをすっかり忘れてしまう。しかし忙しい中でその中で、どのように神を敬い、神との時間が取り「神の愛の伝達者」として私たちが行動する全てのところに主イエスのみ言葉の種まきが出来るようにしていきたい。

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「私の隣人とは?」ルカ10:25-37 中村吉基

イエスが宣教していたガリラヤは貧しい地方であった。懸命に開墾しても税金がとられ破綻してしまう。イエスは社会の中で差別された人々と交流し、どんな人であっても「神に愛されている人」とした。それはガリラヤという辺境に生き、人間扱いされてこなかった人々に、主イエスの教えはまさに「よいニュース」であった。 今日の譬えのサマリア人は、当時のユダヤ人からすれば決して「隣人」の範疇には入らない。しかし、このサマリア人は祭司やレビ人が通り過ぎる中、傷ついた旅人を介抱し宿屋につれていって費用まで払った。私たちも、このサマリア人のように、その人の痛みと自分の痛みとして、すべての人を隣人として寄り添うものでありたい