戦責告白一覧

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「悔い改めから和解へ」マタイ5:1-12 中村吉基

今日は平和を祈り求める平和聖日礼拝。第2次世界大戦から約20年後に表明された戦責告白は教会が戦争に協力した反省から表明された。山上の説教には「平和を実現する者」とあるが、それは単に戦争に反対することではなく暴力と差別を許さない生き方である。今も分断、排外主義、民族差別があり、難民を拒み、他国に対して敵意をあおるような政治の動きがあるが、我々は「和解の務めを担う者」として声を上げているだろうか?和解とは相手を許すだけではなく、自らが傷つけた側であることを認め、ゆるしを請うことから始まる。山上の説教には「柔和な人々」「義に飢え乾く人々」「憐れみ深い人々」になれとある。信仰によって立ち、祈り、語り、行動する者となることが神の子と呼ばれる者の生き方である。

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「負けて勝つとは」 マタイ26:47-52 中村吉基

今日は平和聖日、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とイエスが言われたとおり、平和を思い浮かべるのではなく作り出すものにならなければならない。沖縄で米国の土地強奪に対して非暴力で立ち向かった阿波根昌鴻の作った「ヌチドゥタカラの家」も壁には「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ」とある。今日の説教題は阿波根さんの言葉である。イエスさまは剣を突きつけた敵たちをゆるされた。「負けて勝つ」とはそういうことである。神さまもまた私たち人間が犯した罪責への悔い改めを受け容れ救いに導いて下さる。

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「恐れるな。語り続けよ」使徒18:1-11 中村吉基

アテネで伝道がうまくいかなかったパウロはコリントにいたユダヤ人への宣教もうまくいかない。イエスをメシアと認めないユダヤ人に口汚く罵られ服の塵を振り払って異邦人へ伝道することを決める。異邦人の人々に福音は受け入れられたが同胞のユダヤ人とは膠着状態にあったパウロは苦しかったはずである。そんな時神はパウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と語りかける。これは神が「共にいてくださる」ということである。今日は平和聖日、第2次大戦中キリスト教会は国策によって合同したが、厳しい弾圧にあった教会もあり、逮捕・検挙された牧師もたくさんいた。教団には、そんな彼らを見捨てた歴史がある。戦後鈴木正久によって、正しい判断ではなかったという戦責告白を公にした。沈黙は罪である。私たちはペトロやパウロの時代に始まって連綿と「平和の福音」を告げ知らせてきた教会なのである。