律法一覧

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「キリストはわたしたちの平和」エフェソ2:11-22 中村吉基

エフェソの教会ではユダヤ人のクリスチャンに加え「異邦人」が増え、問題がおこっていた。ユダヤ人は神さまに救われる聖なる民族で律法を与えられた人々であり、異邦人は汚れた人々という思い込みがあり、両者はうまくいかない。そこにパウロは「以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者」となり「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄され」た。「キリストはわたしたちの平和であります」と続ける。平和のキリストは人と人との間に線引きされた垣根を壊される。イエス・キリストというお方が来られたことによって旧約の律法は廃棄され意味のないものになったが、エフェソの教会の人々にはなお「敵意」があった。敵意がある限り、隔ての壁は無くならないし壊れない。その教会にパウロは、あなたがたは外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であると説く。今の日本でも外国人を排除するようなことが起きている。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」という今日の聖書の言葉を心に刻み、祈りを捧げ行動していこう。

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「行動する人、しない人」使徒10:1−16 中村吉基

使徒言行録10章に出てくるコルネリウスは異邦人の百人隊長で、ユダヤ教に改宗こそしていないが信仰心あつい人であった。ある日彼の前に現れた天使に「ヤッファにいるシモン・ペトロをを招きなさい」と言われ、すぐに2人の召使と信仰心の厚い兵士を送る。一方ペトロの前にも天使が現れ、ユダヤの律法で禁じられているものを屠って食べるように命じるが「できない」と断る。すると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声がする。コルネリウスとペトロは行動が対照的である。ペトロはコルネリウスとの交流で神の声を悟る。私たちはペトロのように自分の作った律法で最初から結果を決めつけて行動に移さないことがないだろうか?私たちは神に命じられた時にすぐに立ち上がることができるか問われている。