
「たましいの食事」ヨハネ21:1-14 中村吉基
今日は、イエスが復活後魚とパンで弟子たちをもてなしてくださる箇所である。うらやましい場面であるが、実はイエス様は常に私たちと共にいてくださっている。マザーテレサはミサは霊的な糧であると言った。アメリカで歌われてる賛美歌Part of the Familyで歌われてるように、神の家族として、主イエスの愛に満ちた「たましいの食事」を提供できる教会でありたいものである。
Yoyogi-Uehara Church
今日は、イエスが復活後魚とパンで弟子たちをもてなしてくださる箇所である。うらやましい場面であるが、実はイエス様は常に私たちと共にいてくださっている。マザーテレサはミサは霊的な糧であると言った。アメリカで歌われてる賛美歌Part of the Familyで歌われてるように、神の家族として、主イエスの愛に満ちた「たましいの食事」を提供できる教会でありたいものである。
ラザロなど復活した話は聖書にはあるが、イエスの復活はずいぶん違う。鍵のかかった部屋にいらしたり、外見を見て主である言事を確認するのに時間がかかる。霊的な体であり、人間の五感でも確認できるみ姿だが、生前のイエスのままではなかったようである。 復活を喜ぶ弟子たちの中に入れないトマスは心を閉ざし、傷跡に触れなければ信じないと言う。イエスは彼にむかっても平和があるようにと祈り傷跡に触れさせる。裏切った弟子にイエスから近づき許した。復活は絶望的になっていた人びとが再生する道を与えた。いのちを惜しんで家の中でビクビクしていた人たちはて主イエスの教えを宣べ伝えて、多くの弟子たちが最後には殉教することもいとわなくなった。
ラザロの復活でますます人気の的であったイエスを、祭司長たちや律法学者たちは憎み何とか殺そうと企んでいた。イエスは危険ではあるがベタニアのラザロの家の家の招きに応じた。そこは貧しい人の暮らす地域であったが、その家のマリアは300デナリオン以上するナルドの香油でイエスに注いだ。この贅沢な歓待にイエスの弟子は憤慨したがイエスは受け入れた。マリアがその時に主イエスにできる限りをささげた。私たちが今ここで同じようにささげることができるとしたら何かを考え行動することを神は待っておられる