「主はあなたがたと共に」ヨハネ20:19-29 中村吉基

詩編118:14-29;ヨハネによる福音書20:19-29

先週は主イエスのご復活を共に喜び、祝いました。

復活の「事実」は信仰者の「眼」で、信仰のフィルターを通して見る以外に方法はありません。信仰というものは神秘に属するものです。分厚い神学書を1冊読んでも、あるいは高名な学者のお話しを聞いたからといって、分かったような気になる人が時々おりますが、本来はそのようなことで分かることではありません。

聖書の中には、主イエスの復活の記事以外にも人間のいのちが神の力によって甦らされたエピソードがいくつもあります。その一つが、ヨハネによる福音書11章に描かれているラザロの物語です。亡くなって死体が墓に安置されて4日も経っていました。当然、人々は死体が腐敗しているだろうと思ったわけですが、神の力によって主イエスはラザロを生き返らせます。これは復活というよりは「蘇生」といったほうがよいかもしれません。なぜそういうのかといいますと、今日の記事も同じヨハネに記されている今私たちが聴きました主イエスの復活の記事とは、いささか違った表現で描かれているからです。最初にこう書かれてあります。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

「その日」というのは主イエスがお甦りになった日のことです。鍵がかけられていた家に、あの十字架の日、すなわち金曜日からずっと逃亡していたイエスの弟子たちがいました。追っ手が来て、弟子たち自身が、捕らえられないように頑丈に鍵をかけていたと思われます。しかし、そこに主イエスが来られました。不思議な話です。確かに主がそこにおられました。それは主が、ラザロとも、私たちとも違った〈からだ〉を持っていたことを表します。いわば霊的なからだであったのでしょう。しかし、これは人間の五感でも確認ができるみ姿でした。

隠れていたはずの弟子たちの真ん中に主イエスが突然現れます。驚きを隠せない弟子たちでした。イエスは、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ、とあります。ルカによる福音書24章には主イエスが、じっさいに弟子たちに触れさせて確かめるようにお招きになる場面があります。

復活のイエス・キリストは霊的なからだをとっておられたと申しましたが、同時にそれは人間の五感で確かめられるものでした。そして、その形態や状態については詳しく記されてありませんが、特別に奇妙な形をしていたのでもないし、幽霊や亡霊のようだったとも書かれてありません。ということは、私たち人間と同じ、普通のからだであったといえます。しかし、そうでありながら、主イエスが弟子たちのいる隠れ家にやってきた時に、居合わせなかったトマスは、その男の外見を見て、主であることを確認するのに少し時間がかかっています。それが主イエスであるということに気が付かない、私たちが聖書を読む時に、ここに注目すべきであると思います。

それはマグダラのマリアがイエスに再会した時にも「園丁(園の管理者)」、エマオでの途上で2人の弟子たちがイエスに出遇ったときも、一人の「旅人」だと思い、最初はそれがすぐに主イエスだということに気がついていないのです。主イエスの側近中の側近の弟子たちであっても、このような有様でしたから、おそらくその外見は生前のイエスのままではなかったのではないか、と思われるのです。

トマスは、主イエスがあのような形で辱めを受け、十字架で殺されるとはよもや思ってもいませんでした。完全にイエスに躓いて、そして仲間たちからも離れ去っていただろうと思われます。ですからこの夜、他の仲間たち一緒に、復活の主イエスに再会することはできませんでした。なぜ彼がここにいなかったのか。理由は記されていないのです。

けれども、復活の主イエスに再会して大騒ぎしたり、はしゃいでいたり、浮かれていた仲間たちを見て、何か仲間はずれになった気分を味わったのでしょうか。私たちもこの気持ち判らなくはないですよね。みんなで何かを一緒にしようとして自分だけ参加できなかったことがあるのではないでしょうか。その時、皆さんはどんな気持ちがしたでしょうか。へそを曲げて奇怪な行動に走る人もいます。この時のトマスは悔しさのあまり、仲間たちにも心を閉ざしてしまいました。他の仲間たちが「わたしたちは主を見た」と言うと癪に障って仕方がなかったのかもしれません。

すべてを委ね、イスラエルを解放する王だと信じ従ってきた、その主イエスが殺されてしまった。しかも犯罪者として最も極刑の十字架刑となって・・・・・・。トマスの心の動きは絶望のどん底であったでしょう。しかしそのトマスに向かっても主イエスは言われたのでした。

「あなたがたに平和があるように」。

トマスはもうこれからどう生きていっていいのか分からない。何をしていいのかも・・・…。では彼はどのようにして癒やされたのでしょうか。その前にトマスはこのように言い張っていたのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。8日ののちに再び現れた主イエスはこのようにトマスに言いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。こうしてトマスは主イエスの傷跡にじかに手で触れて、主イエスが生きておられることを確信し、癒やされ、挫折も不信感も消え去って、信仰と平和を取り戻します。主イエスを捨てて離れていったトマスでしたが、このときは主イエスの側から近づかれました。
 
主イエスが「あなたがたに平和があるように」と3度もくりかえしていることを今日、私たちは心に刻みたいと思うのです。主イエスのこのみ言葉は傷ついた人々をあたかも母鳥がその翼で雛を包むような温かさがあります。こうして弟子たちは復活した主イエスを通して、神さまの「愛とゆるし」を体験し、力を取り戻していったのです。主イエスはトマスに手にあった釘の跡とわき腹の傷に触れるよう招きました。これは主イエス流の愛です。主イエスの生身の傷がトマスの心の傷を癒やしたのです。この出来事は再びこの世界に出て行って、自分らしく、元気に生きるチャンスを、主イエスを通して神さまがくださったと言えるでしょう 

そして主イエスはトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」というみ言葉に主イエスの並々ならぬ愛を感じます。主イエスが大きく両手を広げて、「ようやく私の元に帰ってきたのか!」と言って祝福しているかのようです。主イエスの愛とゆるしに満ちたみ言葉の数々が凍りつき、固まってしまった人びとの心を少しずつ溶かしていくのです。復活の出来事は絶望的になっていた人びとが再生する道を与えたのです。考えてみれば家に閉じこもっていた弟子たちは、もう家で閉じこもることなく、外の世界で堂々と胸を張ってきました。そして主イエスの教えを宣べ伝えて、多くの弟子たちが最後には殉教することもいとわなくなっていたのです。いのちを惜しんで家の中でビクビクしていた人たちの何という変貌でしょうか。神の愛とはこういう力を持っているということです。

そして皆さん一人ひとりもこの神の愛を知ることによって、包まれることによって変わることが出来るのです。弟子たちはイエスの外見ではなく、自分の名前をイエスに呼ばれたかもしれません。話しぶりや動作を通して、この方こそ主であると再確認したのでしょう。そしてあの十字架で殺されたイエスが、「今、ここに」居てくださることを再確認したのです。復活のイエスが霊的なからだをとって、人間に関わり続けてくださるのです。

主は皆さんと共に居続けてくださるお方です。

祝福がありますように!