ヨハネ一覧

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「絶望のその先に」ヨハネ20:19~31 中村吉基

イエスの十字架刑後、ユダヤ人を恐れて鍵をかけ家にこもっていた弟子たちの真ん中にイエスが立ち、手とわき腹とをお見せになり、「あなたがたに平和があるように」と言われた。しかし弟子たちはそれがイエスであるとはすぐにはわからない。どうも違う姿であったようである。そこでイエスがおっしゃった「あなたがたに平和があるように」とはヨハネ14章の言葉と関係があり、これから聖霊が到来するのだという宣言でもある。さて。その場にいなかったトマスは躓いたままだった。しかしイエスはそのトマスのところにも行き、傷を触らせた。じかに主イエスの傷跡にふれたトマスは主イエスが生きておられることを確信した。イエスが十字架刑になったことで、固まってしまった人びとの心をイエスが愛とゆるしに満ちた言葉で溶かしていく。復活は絶望的になっていた人びとが再生する道を与えた。家に閉じこもっていた弟子たちは外にでて教えを宣べ伝え、多くの弟子たちが最後には殉教することもいとわなくなっていた。これが神の愛の力である。そして私たちもこの神の愛を知ることによって、包まれることによって変わることができるのである。

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同行二人(どうぎょうににん)ヨハネ1:29-34 中村吉基

洗礼者ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った時、イエスはまだ神の子について説かず奇跡も行っていない、ナザレに住む普通の男だった。それどころか家畜小屋に生まれ十字架で殺されている。人は家柄や裕福さや勤務先などが大切だと思いがちだが、神にはかけがえのない存在である。私たちは神がどんな使命を与えているかということに気がつくことである。イエスは当時重い皮膚病で「罪人」とされたような人々、共同体から追放された人々の「友」となられた。人間社会からから抹殺されていた人びとがイエスによって生きる力を回復させていったことを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と表現した。当時は証言するには2人以上の証人が必要だった。イエスのしたことは、ヨハネに強く印象に残った。だからイエスは神の子だと「証しし続けてきた」のである。その主イエスのいのちをいただいている私たちであるが、現代において、この「世」の人びとの希望となり光となっているとはいい難いだろう。本当に主イエスの愛、いのちにつながっていくことによって、ヨハネのように「わたしはそれを見た」と真実の言葉を語ることが出来る。信仰と思いとことばと行いを新たにしたい。

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「先駆者」ヨハネ1:19-28 中村吉基

聖書にはイエスの誕生日は記されていない。古代教会でクリスマスが祝われるようになったのは4世紀からで、当時流行っていたミトラス教で冬至の12月25日を「不滅の太陽の誕生日」としていたが、キリスト教では「キリストこそまことの正義の太陽」としてこの日を主の降誕日とした。「その日」に「義の太陽」がこの地上の全てを癒すという預言者マラキの言葉もある。さて今日の新約の箇所は「ヨハネは一体誰か?」である。ローマ帝国の支配下で重税や差別に苦しんでいたユダヤの民がメシアを待ち望んでいた時に現れたのがヨハネである。荒れ野で神の言葉を受け、神に立ち返るようにヨルダン川で洗礼運動をしていたヨハネに人々は期待をもって質問するが、ヨハネは自分がメシアでもエリヤでもあの預言者(モーセと考えられる)でもなく「私は荒れ野で叫ぶ声」と答える。これはイザヤ書からの引用とされるが、ヨハネは「後から来られる方」「光(イエス)について証するために」神に遣わされた証し人だと名乗る。私たちも現代においてヨハネと同じ使命を神から頂いている。救いを求めている人に「光」であるキリストを伝え、神が主イエスを救い主としてお遣わしになったクリスマスを祝うことで、洗礼者ヨハネのように「光を証し」していこう。

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「キリストの名によって」使徒3:1-10 中村吉基

エルサレムの神殿の「美しい門」で物乞いをしていた生まれながらに「足の不自由な男」は、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた。決して門の中には入れなかった。そこを通ったペトロとヨハネは「金や銀はないが」と前置きし、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、その男は歩き回り、神を賛美し、一緒に境内に入り神を賛美した。施されたものが金と銀であればその男の当面は潤ったかもしれないがまた尽きれば元通りである。しかし使徒たちは、「イエス・キリストの名によって」永遠の救いを約束した。今日の箇所が教えていることは、金と銀ができることには限界がある、それには頼らずイエス・キリストを信じ、模範として生きることが大切である。私たちがすべきことは「キリストの名」を人びとに与えることが、教会がなすべきことである。

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「イエスの弟子として」マタイ4:12-23 中村吉基

ガリラヤという「暗闇」とまで言われた辺境の地の漁師であった4人の人生が変わっていく。彼らは弟子になりたいと思っていたわけではなく、イエスの方から「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われてすぐに従っている。自分の生活があるのに、彼らも主イエスに触れて従うことを自分で決断したのかもしれない。イエスの人を見方や価値観というのは私たちとは根本的に違う。人ができないような働きや有名な大学等ではない。ごくありふれた普通の人を弟子にしている。それぞれの賜物を生かし、時々弟子に失望しながらも、弟子たちを用いた。我々は自分のことは自分が知っていると思っているが、人間のいのちを創ってくださった神の方がはるかにご存知である。神は無駄な物はお創りにならない。つまり今生きていることこそ、神が愛してくださっているというしるしなのである。私たちは神に出会って輝く人になる。今日の箇所には「悔い改めよ、天の国は近づいた」ともある。主イエスが4人の漁師たちに近づいていったように、神のほうから招いてくださっている。私たちは神の招きに応えて、主イエスの弟子として歩み出すときに素晴らしい輝きを放つことができる。

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「神の愛する子・心に適う人」マタイ3:13-17 中村吉基

洗礼はとても大きな節目である。イエスがヨハネから洗礼を受けたとき、ヨハネはイエスが洗礼を受けることを思いとどまらせようとするが、イエスは洗礼を受ける。すると、神の霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が聞こえた。神は罪ある人々と同じように洗礼を受けられた主イエスを喜ばれた。主イエスの洗礼にならって、キリスト教会も洗礼を大切に受け継いできた。自然の中で大きな力を持つ水によって一度生まれ変わり、「私はイエス・キリストと共に歩む」という決意を表すのが洗礼である。洗礼は入学式であって免許を与える授与式のようなものではない。「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は私たちにもむけられている。洗礼によって、心に灯された光は輝き続ける。

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「神に心を向け直す」マタイ3:1-12 中村吉基

今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されるが、ヨハネに注目するためではなくヨハネが指差した救い主を見るためである。この箇所はルカ福音書にもあるが、マタイの方が迫ってくるものがある。まず命令形で「悔い改めよ。天の国は近づいた」とある。悔い改めというのは、聖書では心も体も「神に心を向け直す」ということである。そこには人間は神に背を向けて生きてしまうという前提がある。ヨハネは荒れ野で声をきき、悔い改めを説いた。イエスも伝道開始時に同様のことを言っている。神と私たちとが出会うことを導いてくださってるのである。神を感じるのは願いが実現した時ではなく闇の中や荒れ野のような状況である。私達が背を向けてもヨハネが示したように神の使者はまもなくおいでになる。ただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのか糾明しながら待降節の一日一日を歩みたい。