ヨシュア記一覧

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「永遠の命の言葉」ヨハネ6:60-71 中村吉基

ヨハネによる福音書6章は5つのパンと2匹の魚からはじまっている。この時男性だけで五千人いた群衆は、イエスが「天からのパン」であり「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」と言われ共感できず去っていき、今日の箇所6章60節以下では弟子たち12人だけになっていた。信仰では理解を超えたところにある壁にぶつかることがある。イエスの弟子たちもあり私たちにも同じ可能性がある。イエスは残った弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と問うと、シモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と答える。天からのパンであると信じられるということではなく一切を「主に委ねます」という信仰告白である。この言葉にアーメンと言えるものは幸いである。

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「惜しみなく与える教会へ」コリントII 8:1-9

25年前、それぞれの歴史をもつ教会がひとつとなって、「神の栄光のため、そして地域に住む人々のために、よく用いられるように願って」という説教とともにこの教会が建てられ礼拝が始まっている。今日の聖書の箇所はパウロがコリントの教会にあてた手紙で、マケドニア州の諸教会について語られている。激しい試練、極度の貧しさにも関わらず、人に惜しまず施す豊かさとなったとある。なぜ貧しいにも関わらず施していたか?マケドニア州のキリスト者たちは今持っているものだけでも分け与えることによって神の恵みがたくさん受けられることを知っていたのである。死海という湖があるが、そこの水は川から流れ込んでくるだけで外に行くことはないので汚れている。人も同じで誰かからもらうことばかりで与えようとしない人は澱んでいく。私たちの教会が与え続ける教会であれば、苦難に陥った時、神の助けがあるだろう。私たちはさらに豊かに種を蒔き続けていかねばならない。祈るだけではなく行動も必要である。

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「ゆるしと愛への招き」ルカ15:11-32  中村吉基

好き勝手に振るまいお金に困って帰ってきて雇ってほしいと言った息子を父親は遠くから見つけ憐れに思い走り寄って首を抱き接吻した。有名な放蕩息子のたとえである。神は正しい人に「しか」祝福をしない、と勝手に考えてしまうものであるが、神のもとには大きな「ゆるし」が備えられている。しかし家でずっと父に仕えてきた兄は納得がいかない。私たちはどちらかというと兄に似てはいないだろうか?それは罪人を切り捨てたファリサイ派、律法学者の姿そのものである。私たちの傷はイエスも苦しんで下さっている。イエスが甦られたように必ず平安が与えられる。これが神の愛である。