マルタとマリア一覧

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「ラザロ、出てきなさい」ヨハネ11:28-44 中村吉基

先週引き続きラザロである。ラザロの死後到着したイエスに姉妹のマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という。マルタと同じである。しかしイエスは「もし信じるなら。神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言い、天を仰ぎ「周りにいる群衆のため」と祈り、「ラザロよ、出てきなさい」と言われた。すると、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていたラザロがでてきたのである。現代の私たちにとって「巻かれている」(言語では繋ぐ、縛るのような意味もある)というのはとても厄介である。ガラテヤの信徒への手紙5章1節でパウロが書いているように「「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださった」のである。ラザロはキリストによって巻かれていたものを取り払われた。これと同じように私たちも今日イエスはが名前を呼んで下さり、「出てきなさい」と、闇の中から光のあるところへと引き戻してくださる。病の中でも、失望の中でも、キリストがあの重い十字架を背負い、今この時も共に苦しんでくださっている。しかしマルタとマリアのように「主がいて下さったら、こうならなかったのに・・・」と不満を持ってしまっていないだろうか。主は今日も光の中を歩んでほしいと強く願い、「出てきなさい」という呼んでくださっている。

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「たった一つ、あったら良い」ルカ10:38~42中村吉基

今日はマルタとマリアの話である。教会生活が長いとどちらのタイプなどと話題になる。今日のマルタから省みなければならないのは、自分のしていることがうまくいかない時に他人にあたるような態度をにじみでてしまっているのではないか。また多くのことに思い悩んでしまっているのではないか。マリアが選んだ「良い方」とは「神の国をもとめること」である。つまり、主イエスが示してくださった愛が、自分の利益のためだけに使われることは本望ではありません。私たちは他者のために愛し、他者のために奉仕することである。しかし私たちは本当に弱さを抱えていますから、マルタのように忙しくなってしまったり、余裕がないときには、神のことをすっかり忘れてしまう。しかし忙しい中でその中で、どのように神を敬い、神との時間が取り「神の愛の伝達者」として私たちが行動する全てのところに主イエスのみ言葉の種まきが出来るようにしていきたい。

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「主よ、献げます」ヨハネ12:1−8 中村吉基

ラザロの復活でますます人気の的であったイエスを、祭司長たちや律法学者たちは憎み何とか殺そうと企んでいた。イエスは危険ではあるがベタニアのラザロの家の家の招きに応じた。そこは貧しい人の暮らす地域であったが、その家のマリアは300デナリオン以上するナルドの香油でイエスに注いだ。この贅沢な歓待にイエスの弟子は憤慨したがイエスは受け入れた。マリアがその時に主イエスにできる限りをささげた。私たちが今ここで同じようにささげることができるとしたら何かを考え行動することを神は待っておられる