マラキ書一覧

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「先駆者」ヨハネ1:19-28 中村吉基

聖書にはイエスの誕生日は記されていない。古代教会でクリスマスが祝われるようになったのは4世紀からで、当時流行っていたミトラス教で冬至の12月25日を「不滅の太陽の誕生日」としていたが、キリスト教では「キリストこそまことの正義の太陽」としてこの日を主の降誕日とした。「その日」に「義の太陽」がこの地上の全てを癒すという預言者マラキの言葉もある。さて今日の新約の箇所は「ヨハネは一体誰か?」である。ローマ帝国の支配下で重税や差別に苦しんでいたユダヤの民がメシアを待ち望んでいた時に現れたのがヨハネである。荒れ野で神の言葉を受け、神に立ち返るようにヨルダン川で洗礼運動をしていたヨハネに人々は期待をもって質問するが、ヨハネは自分がメシアでもエリヤでもあの預言者(モーセと考えられる)でもなく「私は荒れ野で叫ぶ声」と答える。これはイザヤ書からの引用とされるが、ヨハネは「後から来られる方」「光(イエス)について証するために」神に遣わされた証し人だと名乗る。私たちも現代においてヨハネと同じ使命を神から頂いている。救いを求めている人に「光」であるキリストを伝え、神が主イエスを救い主としてお遣わしになったクリスマスを祝うことで、洗礼者ヨハネのように「光を証し」していこう。

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「世直しへ召された者の心構えと佇まい」 マタイ10:5−15 陶山義雄

マタイ福音書第Ⅱ説教集の3回目のテーマは弟子派遣にまつわるテキストであるが、受難節第1主日に相応しい内容を備えている。まず、我々がここに在るのは宣教者の働きによるものである。彼らは遣わされる際に様々な困難に対しての備えと心の準備をしている。マタイを含めて他福音書にある同じ「12弟子派遣の説教」の記述を参照しながらイエスが話された御言葉に迫って行きたい。マタイ記者は当時のユダヤ教に対抗する思いをもって教会の働きを描こうとしているので、現実から、またイエスの言葉からもかけ離れてしまっている点がある。世直しへと召された者の佇まいとしてイエスの教えは、清貧の出で立ち、極貧者のような佇まい、それは救いを待ち望んでいる人々と同じ姿になる事に尽きる。イエスが弟子を遣わす際に語られた言葉は、今も私達と教会に生きて働く言葉である。そしてイエスの第一声で、弟子たち伝えるべきメッセージ「天の国は近づいた」は我々が心に明記すべき救いの知らせ、福音である。