サドカイ派一覧

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「本当にこの人は神の子だった」マタイ27:32-56 中村吉基

受難週におけるイエス・キリストの十字架刑の出来事を通して、神が人間の苦しみに共におられることを語っている。イエスが十字架につけられた背景には、宗教指導者の嫉妬、群衆の心変わり、ピラトの保身という三つの人間的要因がある。これらに共通するのは自己中心的な思いであり、現代に生きる私たちの中にも存在する。イエスはその罪を引き受け、力を使わず黙して十字架に向かわれた。十字架は神が私たちの苦しみに寄り添い、救いを差し伸べているしるしである。神の愛は今もなお、私たちに注がれている。

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「誰に従うのか」使徒4:1-22 中村吉基

教会の最初期の宣教は困難を極めた。今日の場面は「裁判」である。復活を信じないサドカイ派や神殿の祭司たち、権力のある神殿守衛長は、「主イエスは甦られた」と宣べ、門の前の足の不自由な男を癒し、人々の共感を得て勢力をのばしているペトロとヨハネを、ユダヤ教徒を惑わせる行動ととり牢にいれ裁判にかけた。その場でペトロは聖霊に満ち溢れ、自分たち癒しの働きは主イエス・キリストの名によるもの、つまり、主イエスを死から甦らせた神の力と、その主イエスをキリストと信じる信仰によってこの癒しはもたらされたと答え、続けて、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」「この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。・・・」と続けた。従うのが神なのか人なのかは大変に重要なことである。イエスが十字架にかけられた際に「私は知らない」と言ったペトロが「神に従う」ことを選択してるのである。日本でも第2次世界大戦時にギリギリの選択を余儀なくされた。人間社会では軽蔑され捨てらたイエスキリストが教会の「かなめ石」とされたのである。このかなめ石の主である主イエスを仰いでいきたい