ケファ一覧

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「最初の弟子たち」ヨハネ1:35−52 中村吉基

洗礼者ヨハネが「神の子羊」と言うこの方どんな方か、2人の弟子が主イエスを追う。するとイエスが振り返って「何を求めているのか」と尋ねる。そしてそのまま2人は、ほとんど面識のないイエスに従ってきた。次はペトロである。後に弟子たちのリーダー、教会の指導者となるが、彼の兄弟アンデレから「わたしたちはメシアに出会った」ときき、イエスのもとに馳せ参じた。その翌日はフィリポとナタナエルである。まず「わたしに従いなさい」とフィリポが招かれ「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った」とナタナエルに伝える。聖書をよく知っているナタナエルは「ナザレか。ら何か良いものが出るだろうか」と答えるが、イエスと会い「あなたは神の子です」と告白する。今日の箇所だけではないが聖書の物語だけでは人々が主イエスにあった時の輝きやその言葉の力強さは伝わりにくい。私たちは「知らないもの」に対して恐怖を覚えるが主との出会うことによってそれはそれぞれの中で平安な出来事に変えられていくのである。

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「復活の証人たち」 コリントI 15:1-12 中村吉基

復活の信仰は、主イエスの弟子たちが作り上げた物語であろうとする説明がかなり昔から存在している。十字架は弟子たちに大層な衝撃だったので、弟子たちの“心の中で”復活したという説である。しかしパウロの説教である今日の箇所を読むと、矛盾する点がいくつかある。第一に、生前のイエスに会ったことのない、しかも当時のキリスト者を迫害していたパウロの心に主イエスが復活するような経験はしていないと思われるのである。第二に、パウロは福音が伝えられることを「キリストは○○に現れた」と語っていることである。5節以降に「現れた」という言葉が6回繰り返される。主イエスさまご自身が現れてくださったということがパウロによって強調されている。第3に、復活の証人と記されてあるところには「十字架」という言葉がセットになっている。十字架刑があったことは事実、しかし一度死んだ人が甦るなどということは普通の常識では考えられないこと、偽証ととられ敵対している陣営に攻撃の材料を提供しかねない。よほどの根拠がなければ言えることではない。しかし信じられない人もいたようで、この反対者たちにパウロはたいへん苦心する。パウロのみならず、現代でもそうである。パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」といい、復活の主によってパウロは「自分は今、生かされている」という境地に達している。私たちも主によって確かに「今、生かされて」いるのである。