「良い土地に良い種を」マルコ4:1-9,13-20 中村吉基
今日の箇所は4つの土地への種まきの例えを通して、幸せは「神を信頼し」「善を行う」ことであると教える。それぞれの土地に傲慢、逃避、移り気、欲望などさまざまな障壁があるが、収穫を得たいよい土地、つまり神を謙虚に受け止め、神に協力しなければならない。それは苦しみの中にあるときもである。他人を大切にすることで喜びに満たされる、それが種まきである。
Yoyogi-Uehara Church
今日の箇所は4つの土地への種まきの例えを通して、幸せは「神を信頼し」「善を行う」ことであると教える。それぞれの土地に傲慢、逃避、移り気、欲望などさまざまな障壁があるが、収穫を得たいよい土地、つまり神を謙虚に受け止め、神に協力しなければならない。それは苦しみの中にあるときもである。他人を大切にすることで喜びに満たされる、それが種まきである。
すっかり正月であるが、教会では公現日までクリスマスである。イエスの誕生をめぐり、ルカに記された羊飼いとマリアの姿を通して信仰を考えたい。羊飼いたちは天使の言葉を信じ、ベツレヘムにかけつけ、その後喜びを独占せず人々に伝えた。当時差別されていた職業である彼らに、神が味方されているのである。一方マリアは、不可解なこともすべて心に納めて思い巡らした。すべてを「神のみこころ」として捉えようとした。。教会はこの二つの信仰に倣い神の愛を分かち合う共同体として新しい年をすごしていきたい
今日の箇所のヨハネによる福音書では他と違い降誕の話ではなく、初めに言があったと語り、イエスが何者なのかを明確にし、私たちとの関わりを示す。キリストは命そのものでありその命は光としてすべての人間、そこに闇がある人間にすべてを照らす。成功や信仰の強さなどは関係なく、弱さの中でこそ輝く光である。
イエスを最初に礼拝したのは東方の占星術の学者と記されているが、当時の社会の中では片隅に追いやられてる人達と考えられてる。一方、ヘロデ王は救い主の誕生を希望ではなく脅威として恐れ、殺そうと試みていた。社会の中心にいるとはいいがたい人々と同じ高さになるように飼い葉桶を用意された。この一年、排除の機運が高まっているが、恐れから人を排除する場所ではく、神に招かれた人を迎える場所となりたいと願い、飼い葉桶のイエスを迎えるこの時期をすごしたい。
今日は「喜びの主日」。マリアが天使からの救い主の母になることを告げられ受け入れる。マリアは確認のためエリザベトのところにむかい、聖霊に満たされてほめたたえられる。マリア賛歌と言われる箇所である。私たちもそれぞれの信仰を確かめてマリアと同じように信仰の喜びを受け、次週のクリスマス礼拝をむかえよう
神がイスラエルの民を解放することを伝えるためにモーセを選ぶ。モーセは困難の中にあり自分の弱さを理由にためらうが、その弱さこそが神に選ばれた理由である。人の力ではなく神の恵みによって救いは成就する。私たちもまた、聖霊の助けを祈り求めながら、神が私たちを通して働いてくださることを信じ、主の導きに従って歩むものでありたい。
子ども祝福礼拝のため、子どもと大人合同の礼拝。「きみのかわりはどこにもいない」いのちのことば社を読みお話が続く。 小さな羊が迷子になってこわくてさみしい思いをした時、羊飼いは「いなくてもいいか」とは言わず、一生けんめいに探し、見つけたら喜んで抱きしめました。イエスさまは、この羊飼いのように神さまも一人ひとりを大切にし、「きみのかわりはどこにもいない」と思っておられると教えています。今日の子ども祝福礼拝は、その神さまの愛をお祝いする日です。100匹のうち1匹がみつからなくなった羊飼いはその羊(ワンダー)をあきらめずに探し、探したのちはお祝いまでする。それは神さまと同じ、世界に何十億の人がいても、ひとりひとりが特別な存在、「きみのかわりはだれもいない」のである。今日の子ども祝福礼拝はそんな神様の思いをお祝いする日です。
今日の箇所でヤコブは教会内で貧富の差で人を分け隔てすることをたとえにあげている。当時はよくあったのだろう。しかし現代でもそれはある。人をえこひいきすること(差別)は神の御心に反する。神が愛され、選ばれるのは貧しい人達である。ほかの誰かを憐れむことができない人は、自分自身も神に憐れまれることはない。自分本位ではなく、「相手本位」だったイエスさまの姿に倣い教会を形成していこう
分裂していたコリント教会にむけて書いたパウロの書簡が今日の箇所である。人は教えを受けたものを尊重してしまうが、信仰は指導者に対してあるべきではない。パウロは自分の働きは洗礼の数ではなく福音を伝える事、十字架の復活と恵みが教会の中心なのだと書く。現代でもこのような派閥や対立が生まれがちであるが、意見や立場の違いを超えて互いに支え合い、十字架のもとで一致する群れである必要がある。そしてその一致は我々の努力ではなく神の賜物である。
齢を重ねることは神さまからの恵みであることを憶えて今年から始めた「恵老祝福礼拝」。年齢を重ねると「もう自分の働きは終わった」と思うが、聖書は、人生の晩年こそ新しい仕方で神が働かれる時である、と語る。今日の聖書箇所のパウロの手紙では、前を向くと書かれているが、彼は宣教故に牢獄で死を間近に見つめていた。しかし信仰の歩みには終わりがない。神は人生のどの時期にも私たちを用いて下さる。今日の礼拝にあたり年長者の歩みに感謝し教会にとってかけがえのない力であることを忘れず、ともにキリストを知るというゴールにむけて歩み続ける。