礼拝説教一覧

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「もう一度、やり直せる」コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16-19 中村吉基

クリスチャンとして生きることは、単に性格や振る舞いを変えるだけでなく、キリストと結ばれることで、過去の自分から新しい自分へと変わることを意味します。渡辺峯さんは、神の導きによって人生を変えられ、信仰と平和への貢献しました。この変化は、「新しい命」を意味し、神が私たちを守り導いてくださることを信じることが大切です。

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「負けて勝つとは」 マタイ26:47-52 中村吉基

今日は平和聖日、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とイエスが言われたとおり、平和を思い浮かべるのではなく作り出すものにならなければならない。沖縄で米国の土地強奪に対して非暴力で立ち向かった阿波根昌鴻の作った「ヌチドゥタカラの家」も壁には「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ」とある。今日の説教題は阿波根さんの言葉である。イエスさまは剣を突きつけた敵たちをゆるされた。「負けて勝つ」とはそういうことである。神さまもまた私たち人間が犯した罪責への悔い改めを受け容れ救いに導いて下さる。

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「永遠の命を得るために」ヨハネ6:41-59 中村吉基

「わたしは天から降って来たパンである」といわれて私たちは受け入れられるだろうか?イエスのこの言葉を聞いた人々は「彼は大工の子で平凡な村人ではないか」とざわつく。それを見たイエスはつぶやき合うのはやめるように、つまり不平を言わず神を見るように言う。イエスは「わたしにつまずかない者は幸いである」とよく言われた。馬小屋で生まれ貧しい人の姿をしたイエスが「天から来た」と言うことが…人は常識を覆されるようなことを言われても即座に信じることはできないのである。しかし私たちと主イエスが結ばれるために神様が手を差し伸べてくださる。人間関係でも心を開いた方が関係はよくなることが多い。神に対しても同じである。私たちは主イエスを本当の「いのちのパン」として信じて受け入れイエスのみ言葉を私たちの日ごとの食物として生きるならば、今日の最後の節51節にあるように「その人は永遠に生きる」ことができる。

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「いのちの糧」ローマ14:10-23 中村吉基

パウロはローマの信徒への手紙に「食物規定」について書いている。旧約の律法はさまざまな戒律があり何千年にもわたり守られていたが、その解釈によって、例えば菜食か否かなどで問題も起こっていた。パウロはこの問題について心を痛めていたようである。信徒にむかって、戒律を重んじる信仰の弱い人批判せず受け入れるように言う。食物について、かつてイエスは「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」と言われたが、パウロも「わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」「汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」と続ける。人間は聖俗など分けるが全て神がお造りになったものである。神の関心は誰が何を食べるかではなく魂である。私たちの内側に活きる神が見えなくなる時に神の愛に生きる道から外れてしまう。キリストは、食べ物のことで悩む兄弟のためにも死んでくださってるのである。パウロがいうように「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び」であり、平和や互いの向上に役立つことを追い求めることがクリスチャンである我々がこの地上の教会を作り上げるようにと招かれている。

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「光は暗闇の中で輝いている」 ウクライナ避難者支援活動の現場より ヨハネ1:5 横山由利亜

外国人の人権のために祈るインターナショナルサンデー礼拝に日本YMCA同盟でウクライナ避難民支援をなさっている横山由利亜さんに支援のきっかけ、現場での話、避難までの、そして避難してからの苦労、戦争というものがいかに人の生活を壊し、人との間を断絶してしまうか。避難をする人たちのともしびとなるための活動であったが、活動を通して「人間の尊厳の大切さ」「日本が多様な人と暮らせる社会か、やり直しができる社会か」が照らされる。「途中ニュース画像は音声ではカット、また原稿にもありません。

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「復活への希望」使徒24:10-21 中村吉基

パウロがエルサレムで逮捕されローマに護送された先で最高法院の代表である大祭司アナニアがその側近に対して弁明する。その前にいたテサロニケでパウロは多くのギリシア人たちを信仰へと導きそれを妬んだユダヤ人が暴動をおこし大騒動となった。またその前のエフェソ等のアジアでも多くの信徒を獲得しているため嫉妬されてる。しかし彼がエルサレムでしていたことは神を礼拝することだけ。パウロは「ナザレ人の分派」と呼ばれ異端とされていたことを「この道」と言い換え、それに従って礼拝し何ら神さまの御心に反するものではない。そして「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」と続ける。ファリサイ派の人たちは正しい者だけが復活すると信じていたようであるが、イエスさまは「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」、つまりすべての人が復活すると約束している。「私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と言う。パウロは復活のキリストにあって回心した人物である。ローマの信徒への手紙10章にもあるように「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と書いている。復活のイエスさまと私たちが、神と私たちがしっかりとつながっていることを示している。私たちは天にある方々と繋がっている。復活の主を仰いで光の中を歩んでいこう。

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「起きなさい」使徒9:36-43 中村吉基

ヤッファという港町にタビタ(ギリシャ語でドルカス、カモシカの意)と呼ばれる女性がいた。たくさんの善い行いや施しをしていた女性だったが、病に侵され亡くなった。近くのリダという町にいたペトロがおり、そこに2人の使者がタビタの亡骸に来るように依頼する。丁寧に安置されたタビタの前には多くのやもめがおり、ペトロに生前のタビタから施してもらった物を見せた。ペトロタビタと対面し神に祈り、「タビタ、起きなさい」と言う。生前のイエスがおっしゃったと同じである。ペトロがイエスさまを通して神さまの力が実現するようにと願ったのである。タビタは目を開き立ち上がることができた。周りの人は驚き多くの人が主を信じた。初期のクリスチャンはこのように奇跡をマジックショーのようにして宣教していたのだろうか?今日の結びでペトロは皮なめし職人のところに滞在したとある。当時のユダヤでは汚れた見なされていた職業である。タビタに集まってきたやもめも当時の差別されてきた人々であり、初期クリスチャンたちは彼らと共にあった。私たちはイエスさまという光をいただいている。今朝は特にパウロのこの言葉を心に刻みたい。「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

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「キリストはわたしたちの平和」エフェソ2:11-22 中村吉基

エフェソの教会ではユダヤ人のクリスチャンに加え「異邦人」が増え、問題がおこっていた。ユダヤ人は神さまに救われる聖なる民族で律法を与えられた人々であり、異邦人は汚れた人々という思い込みがあり、両者はうまくいかない。そこにパウロは「以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者」となり「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄され」た。「キリストはわたしたちの平和であります」と続ける。平和のキリストは人と人との間に線引きされた垣根を壊される。イエス・キリストというお方が来られたことによって旧約の律法は廃棄され意味のないものになったが、エフェソの教会の人々にはなお「敵意」があった。敵意がある限り、隔ての壁は無くならないし壊れない。その教会にパウロは、あなたがたは外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であると説く。今の日本でも外国人を排除するようなことが起きている。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」という今日の聖書の言葉を心に刻み、祈りを捧げ行動していこう。

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「その水をください」ヨハネ4:1-15 中村吉基

ユダヤと敵対関係にあったサマリアの地を通った時イエスはヤコブの泉とよばれる井戸で休んでいた。その時水をくみにきた女性に「水を飲ませてください」と頼む。パレスチナでは水は貴重で井戸は共同管理されており旅人が容易に使うことはできなかった。女性は「なぜユダヤ人がサマリアに頼むのか」と言うが、イエスは、もし私が誰なのか判っていたならば、あなたのほうが私に水を飲ませてくれと言うだろうに……。わたしは生きた水を持っているのだからと返す。生きた水と人間の救いのことである。しかし彼女は理解せずとんちんかんな受け答えをする。私たちも似たようなことをしていないだろうか。神が私たちに実現させようとしておられることを「まさか、そんなことができるはずがない」と否定してしまうのである。創世記でアブラハムとサラも子供をさずかるというお告げを笑ってしまっている。私たちは過去を捨てず、思い込み決めつけてしまう。今日の箇所には「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかしわたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とある。私たちにできないことがあっても、神にはそれができないことはない。消極的な自分の内側の声ではなく神のみ声に耳を傾けたい。今日の聖書の最後では、サマリアの女性から「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」という。私たちも神に「その水をください」と素直に大胆に申し出られるものになりたい。

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「いのちのバトン」詩編23:1-6 中村吉基

(この日は昇天者祈念礼拝でした)今日の箇所詩篇23編はユダヤ教の人々も、キリスト教の者たちも何千年にも渡って愛唱されてきた聖書の言葉である。羊は道に迷いやすいらしく羊飼いが必要である。「わたしには何も欠けることがない」とあるが、それは羊飼い(神)がいれば十分に満ち足りるという信仰告白である。神は「正しい道」への導かれるがどんな道か、「死の陰の谷を行くときも」と記してある。人生は順風満帆ではなく絶望するようなこともある。そういう「死の陰の谷」を乗り越えてくるのが人生である。しかし詩篇の作者は「わたしは災いを恐れない」と続ける。「あなたがわたしと共にいてくださる」からである。正しい道に導かれるためには、与えられたいのちを精一杯に生きそのバトンを渡していくことも大切だが、どこに目を向けて人生を歩んでいくのかを考えることはもっと大事なことである。