礼拝説教一覧

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「わたしたちは一つの体」コリントⅠ 10:14-22 中村吉基

今日は「世界宣教の日」「世界聖餐日」です。日本キリスト教団は6か国に9人の宣教師を派遣しており、世界中の教会と連帯して聖餐を祝います。パウロは、聖餐を通してキリストと「交わる」ことが大切であり、キリストの血と体にあずかることが偶像礼拝から逃れる道でもあるとしています。ナチス時代のドイツ教会がキリストの教えに忠実であろうとし、困難な状況においても信仰の共同体として一致しました。私たちの日本もかつて戦争に突き進み、散り散りになっていきました。聖餐は、私たちがキリストを信じることで一つの体となり、神の力を信じて祈る場です。心を一つにして祈るところにのみ神の力が顕されることを信じましょう。

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「あなたは誰ですか」ヨハネ10:27-30 中村吉基

イエスは私たち人間を羊に喩え、羊飼い=イエスの声を聞き分ける者には永遠の命を与えると語っています。毎日の生活の中で神さまの声を聞き分けることができるようになるには、すぐ近くにいる人々の声を聴くことが大切です。神さまはさまざまな人との出会いを通して、歩むべき道を示してくださるのです。私たちと出会うすべての人が神さまの子どもであり、イエスは「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と語りました。イエスについていくことを妨げるのは人間の弱さではなく、「羊飼いなどいらない」と思ってしまう自信過剰です。そのことを心に留めて新しい一週間を歩みましょう。

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「狼なんか怖くない」ヨハネ10:11-18 中村吉基

羊飼いにとって自分の羊はとても大切であるが、羊飼いとして雇われたものは狼に襲われた時などは身の危険を感じると羊を捨ててしまう。イエスはこのたとえ話をもって本物の愛に生きる人とご都合主義をわけ、イエスは良い羊飼い、羊のために命を捨てるという。続けて命を捨てることもでき、それを再び受けることができるといい、のちの復活の説明を試みている。私たちの周囲には武力や権力の濫用、身勝手さなどの「狼」がいる。イエスはその反対「仕えられるためではなく、仕えるために来た」の言葉通り、命を捨てて尽くして下さった。私たちは「羊飼い」にはなれないが、命を捨てるほどに愛して下さったイエス様を感謝して進んでいきたい。

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「私たちを導く声」ヨハネ10:1-10 中村吉基

人間関係が深くなれば信頼が生まれ、相手のことを思うだけではなくて相手を信頼し、すべてを委ねることができるようになる。それを妨害するのは「恐れ」である。恐れなくなるにはおどうしたらいいだろうか?それは今日の箇所の9節にある「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」。羊が羊飼いの声をききわけ他の声についていかないように、私たちもイエス様の声をききわけよう。イエス様は羊飼いとして、今日も私たち一人ひとりの名前を呼んでくださっている

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「正直に生きる」ヨハネ8:1-11 中村吉基

姦通の罪で石打ちの刑が処される女を前にファリサイ派がイエスに尋ねる。律法を守るのかイエスが説いていた「神さまの赦し」なのかということである。それに対しイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言い、自分の犯した罪を思って投げられなかった人々が立ち去ると、イエスはその女性を罪に定めない、これからは罪を犯してはならないという。罪に定めないとは2つ意味がある。女性がしたことがいいことではないが、赦されたこと神がさまにいつも愛されていることであることを知って精一杯生きてほしいと願い、2つ目は過去よりも今日からの生き方に値打ちがある、再出発の機会を与えて下さる神様であるということである。自分を「正しい」と思わず「正しくあろう」という途上であり、心を柔軟にもちどんな時も軌道修正できることが信仰の中心である。それは自分自身の力ではできない。「そのまま」の自分をしっかりと見つめて、時には軌道修正することで神さまの祝福を受けることができる。

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「マイム・マイム」ヨハネ7:37-39 中村吉基

聖書の舞台イスラエルでは水が大変貴重であることから、「水」は神の救いの象徴となっていきました。イエスは渇いた人々に「私のもとに来て飲みなさい」と呼びかけ、魂の渇きを満たす「生きた水」の働きを示しています。また、この「生きた水」は、信じる者の内から他者に広がり、喜びと慰めをもたらすのです。

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「あなたはわたしの愛する子」マルコ1:9-11 徳田信

イエスが洗礼をうけたときに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた。そこから公生涯が始まったがそれは十字架に終わっている。私たちは生きていく中で様々な困難にぶつかる。人は支えがないと生きていけないが、それは神の支えと言い換えることもできる。神の愛を受け取らないことは罪である。放蕩の限りを尽くした、もしくは尽くしている私たちの帰還を神は待っておられる。

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「もう一度、やり直せる」コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16-19 中村吉基

クリスチャンとして生きることは、単に性格や振る舞いを変えるだけでなく、キリストと結ばれることで、過去の自分から新しい自分へと変わることを意味します。渡辺峯さんは、神の導きによって人生を変えられ、信仰と平和への貢献しました。この変化は、「新しい命」を意味し、神が私たちを守り導いてくださることを信じることが大切です。

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「負けて勝つとは」 マタイ26:47-52 中村吉基

今日は平和聖日、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とイエスが言われたとおり、平和を思い浮かべるのではなく作り出すものにならなければならない。沖縄で米国の土地強奪に対して非暴力で立ち向かった阿波根昌鴻の作った「ヌチドゥタカラの家」も壁には「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ」とある。今日の説教題は阿波根さんの言葉である。イエスさまは剣を突きつけた敵たちをゆるされた。「負けて勝つ」とはそういうことである。神さまもまた私たち人間が犯した罪責への悔い改めを受け容れ救いに導いて下さる。