礼拝説教一覧

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「かみさまのもとにいる幸せ」ルカ15:11-31 なかむらよしき

今日は子ども祝福礼拝、子供も大人も皆で神を賛美します。イエス様は今日の箇所でこんなお話をします。「お金をもらった次男が遊びおちぶれて帰ってきたが父は彼のために無事に帰ってきたお祝いをした。それをみた長男は、自分は真面目に働いてきたのに納得できないというが、父親は長男を認め説得し、かつ、弟の帰還を喜んでほしいという。このたとえ話の父親は神様。神様は立派な人間だけを愛するのではなく、どんな時も誰をも、どんな失敗をしても優しい心で許して下さるのである。

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「神の言葉に委ねる」創12:1-9 中村吉基

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」という神の声をきいてアブラハムが実行したのは彼が75歳の時であった。彼は無鉄砲であったのではない、ひたすら神の言葉に従うと決心していたのである。彼の神さまに委ねて生きる姿に学ぶべきである。召命とは「神が自分に何を望んでいるのか」を考えることだが、それを応えて従うことが献身である。私たちの内面は「執着」や「安定」を求めてしまいがちであるが、神さまは私たちを呼んでくださっている。神さまは私たちに必要なものをすべて備えてくださっていることを信じてみ言葉を信じ、神さまが示す地へ行けるようにしたい。

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「宗教改革とエキュメニズム」ガラテヤ3:26-28 藤原佐和子

エキュニズムは「教会の一致」を目指す運動と言われるが、イエスの祈りに共鳴する信仰運動であり分断に取り組むことが特徴である。宗教改革も分断であるが、宗教改革運動のモットーは「教会は絶えず改革し続ける」というものであった。16世紀に福音の理解をめぐって分裂したカトリックとルターはその後20世紀まで互いに無関心であった。1960年代から対話が始まり1987年に新共同訳聖書として実り、1999年「義認の教理に関する共同宣言」としてもはやお互いを断罪しないと宣言する。宗教記念改革日は16世紀の分断からその後の一致、これからの改革を思い描く日、イエスの語る「神の国」のヴィジョンを、少しづつ私たちが働きを担い、神を信頼することがたえざる改革のカギとなる。

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「わたしがあなたと共にいる」エレミヤ1:4-8 中村吉基

預言者エレミヤは神から呼びかけられたとき若者であることなど理由に断る。しかし神は「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と約束される。私たちが困難にあっても欠けたとことがあっても「神さまがともにいてくださる」それがもっとも幸福な状態である。実際のエレミヤは一見神様に守られてるようには思えないが思わぬ形でおられた。私たちの恐れや嘆きも神さまが共にいてくださることを信じて歩もう

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「わたしたちは一つの体」コリントⅠ 10:14-22 中村吉基

今日は「世界宣教の日」「世界聖餐日」です。日本キリスト教団は6か国に9人の宣教師を派遣しており、世界中の教会と連帯して聖餐を祝います。パウロは、聖餐を通してキリストと「交わる」ことが大切であり、キリストの血と体にあずかることが偶像礼拝から逃れる道でもあるとしています。ナチス時代のドイツ教会がキリストの教えに忠実であろうとし、困難な状況においても信仰の共同体として一致しました。私たちの日本もかつて戦争に突き進み、散り散りになっていきました。聖餐は、私たちがキリストを信じることで一つの体となり、神の力を信じて祈る場です。心を一つにして祈るところにのみ神の力が顕されることを信じましょう。

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「あなたは誰ですか」ヨハネ10:27-30 中村吉基

イエスは私たち人間を羊に喩え、羊飼い=イエスの声を聞き分ける者には永遠の命を与えると語っています。毎日の生活の中で神さまの声を聞き分けることができるようになるには、すぐ近くにいる人々の声を聴くことが大切です。神さまはさまざまな人との出会いを通して、歩むべき道を示してくださるのです。私たちと出会うすべての人が神さまの子どもであり、イエスは「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と語りました。イエスについていくことを妨げるのは人間の弱さではなく、「羊飼いなどいらない」と思ってしまう自信過剰です。そのことを心に留めて新しい一週間を歩みましょう。

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「狼なんか怖くない」ヨハネ10:11-18 中村吉基

羊飼いにとって自分の羊はとても大切であるが、羊飼いとして雇われたものは狼に襲われた時などは身の危険を感じると羊を捨ててしまう。イエスはこのたとえ話をもって本物の愛に生きる人とご都合主義をわけ、イエスは良い羊飼い、羊のために命を捨てるという。続けて命を捨てることもでき、それを再び受けることができるといい、のちの復活の説明を試みている。私たちの周囲には武力や権力の濫用、身勝手さなどの「狼」がいる。イエスはその反対「仕えられるためではなく、仕えるために来た」の言葉通り、命を捨てて尽くして下さった。私たちは「羊飼い」にはなれないが、命を捨てるほどに愛して下さったイエス様を感謝して進んでいきたい。

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「私たちを導く声」ヨハネ10:1-10 中村吉基

人間関係が深くなれば信頼が生まれ、相手のことを思うだけではなくて相手を信頼し、すべてを委ねることができるようになる。それを妨害するのは「恐れ」である。恐れなくなるにはおどうしたらいいだろうか?それは今日の箇所の9節にある「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」。羊が羊飼いの声をききわけ他の声についていかないように、私たちもイエス様の声をききわけよう。イエス様は羊飼いとして、今日も私たち一人ひとりの名前を呼んでくださっている

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「正直に生きる」ヨハネ8:1-11 中村吉基

姦通の罪で石打ちの刑が処される女を前にファリサイ派がイエスに尋ねる。律法を守るのかイエスが説いていた「神さまの赦し」なのかということである。それに対しイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言い、自分の犯した罪を思って投げられなかった人々が立ち去ると、イエスはその女性を罪に定めない、これからは罪を犯してはならないという。罪に定めないとは2つ意味がある。女性がしたことがいいことではないが、赦されたこと神がさまにいつも愛されていることであることを知って精一杯生きてほしいと願い、2つ目は過去よりも今日からの生き方に値打ちがある、再出発の機会を与えて下さる神様であるということである。自分を「正しい」と思わず「正しくあろう」という途上であり、心を柔軟にもちどんな時も軌道修正できることが信仰の中心である。それは自分自身の力ではできない。「そのまま」の自分をしっかりと見つめて、時には軌道修正することで神さまの祝福を受けることができる。