Shimako F一覧

NO IMAGE

「聖霊によって歩む」2024/04/28 中村吉基

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と今日の箇所は始まる。創世記で神は人間に自由に生きる道を与えて下さったが、それは好き勝手に生きるということではない。パウロは今日の箇所で「霊(聖霊)に導かれて生きることこそが自由に生きることなのだ」と言う。彼は律法は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって実現すると信じていた。愛するというのも「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」私たちの目の前にいる相手を愛するということである。しかし「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」とも書かれている。そのようにならないように肉の欲望ではなく霊の導きに従って歩みなさいとパウロは言う。肉の望むところは霊に反し、霊の望むところは肉に反するのである。私たちも欲望が尽きることがなく絶えず苦しみを受けるが、パウロは「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」と宣言し「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と今日の箇所を結ぶ。聖霊の美徳によって生きるということである。神は人間に自由意志を与えたのは、善に用いるように生かしてくださっているのである。

NO IMAGE

「この人たち以上に」ヨハネ21:15-25 中村吉基

先週の続き、ティベリアス湖畔で食事をした後、主イエスとペトロの会話である。主はペトロではなくヨハネの子シモンと呼び、多少言い方の違いはあるが自分を愛しているかを何回も問う。ペトロは聞かれるたびに「愛している」と答える、そうするとまた多少言い方は違うが「私の子羊を飼いなさい」と言われる。何度も聞かれるのでペトロは悲しくなる。主イエスを愛することはキリスト者にとっても牧会においても最も大切なことである。主を愛することなしに信仰生活はおろか、教会の存続すらできない。牧会とは「魂への配慮」とも言われる。ペトロは弟子たちのリーダーで福音宣教にも出て、信者たちの牧会にもあたった。今日の箇所ではそのペトロの殉教についても触れている。またもう一人の弟子もでてくる。その弟子のついてのイエスの言葉の誤解をときながら、証しが真実であることを書いている。実際にイエスを知っていた弟子たちに始まり2000年の時を経て「主イエスを証言する」ことが伝えられてきた。私たちも主の証人である。

NO IMAGE

「左側ではなく、右側に」ヨハネ21:1-14 中村吉基

今日の箇所は復活された主イエスがトマスにお会いになった後のことである。場所はティベリアス湖、主イエスの活動の拠点でもあった。夜明けに岸にたっていた主のことを漁をしていたペトロ達は誰だかわからなかったが「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われ実行すると「魚があまり多くて、引き上がることができなかった」。この「引き上がる」は神や主イエスがご自身のもとに引き寄せてくださるという言葉と同じである。自身の力ではなく、主イエスを通して多くの魚を引き寄せることできた。自分の経験を信じ「そんな無駄なことやってもダメ」と諦めず、見知らぬ男(主イエス)のいう事に賭けてみたことは、ひとつの信仰の態度と言える。彼らが陸にあがると炭火がおこしてあり、魚とパンが用意されていた。そこに獲れた魚ももってくるよう主はいわれた。聖餐を想起させ心が温まる出来事である。またこの出来事はペトロの経験が覆される出来事であったが、彼はそれを受け容れた。自分の経験や価値観を過信するあまりそれが正しさだと思い行動してしまうが、今日のエピソードは神の恵みの力によって相対化され最後には崩された人間たちの物語であり、主イエスが新しい生き方へとペトロたちを招いているである。

NO IMAGE

「絶望のその先に」ヨハネ20:19~31 中村吉基

イエスの十字架刑後、ユダヤ人を恐れて鍵をかけ家にこもっていた弟子たちの真ん中にイエスが立ち、手とわき腹とをお見せになり、「あなたがたに平和があるように」と言われた。しかし弟子たちはそれがイエスであるとはすぐにはわからない。どうも違う姿であったようである。そこでイエスがおっしゃった「あなたがたに平和があるように」とはヨハネ14章の言葉と関係があり、これから聖霊が到来するのだという宣言でもある。さて。その場にいなかったトマスは躓いたままだった。しかしイエスはそのトマスのところにも行き、傷を触らせた。じかに主イエスの傷跡にふれたトマスは主イエスが生きておられることを確信した。イエスが十字架刑になったことで、固まってしまった人びとの心をイエスが愛とゆるしに満ちた言葉で溶かしていく。復活は絶望的になっていた人びとが再生する道を与えた。家に閉じこもっていた弟子たちは外にでて教えを宣べ伝え、多くの弟子たちが最後には殉教することもいとわなくなっていた。これが神の愛の力である。そして私たちもこの神の愛を知ることによって、包まれることによって変わることができるのである。