Shimako F一覧

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「イエスにならう」マタイ4:1-11 中村吉基

先週14日の「灰の水曜日」、昨年の棕櫚の主日に飾られた棕梠の葉を燃やして、その灰をそれぞれの額につけて「土の塵」から想像されたことを思い起こした。今日の箇所では悪魔がイエスを誘惑した箇所である。しかしこの冒頭には〝霊〟によって導かれたのだとある。霊による導きによって悪魔の試練を受ける、すべては神のもとにるのである。さて、誘惑するものは石をパンに変えるように、つまり物質的なモノにように満たされることとと預言者としてのイエスを試している。旧約聖書のエリヤにちなんでいるものである。次に都の神殿の屋根の端に立たせ飛び降りたらどうだ?と誘い、自分さえ良ければいいとする誘惑(十字架にかけられた際に人々から侮辱も同じような言葉であった)と同時に祭司としてのイエスを試している。祭司は神と人の間を執りなす役割なので、神はイエスを助けるだろうというのです。次に悪魔は非常に高い山から国々を見せてもし、ひれ伏してわたしを拝むならこれをみんな与えようという。富と権力に対する試練、そして王としてのイエスを試している。これらに対してイエスは「退け、サタン」と言われる。サタンの誘惑は私たちにも向けられるし、私たちの中にもある。命も富も必要であるが執着してはいけない。私たちは神の言葉に従うことが大切である。神の言葉に導かれ養われることを受難節の課題としたい。

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「主は羊飼い」マタイ8:23-24 中村今日子

信徒の立証による礼拝 新型コロナウィルス流行の中での葛藤のあるデイサービスセンターの運営の苦しさを経て、アッシジのフランチェスコが全ての財産を投げ出して着ていた服も父親に返した場面の(ジョット)を見ようとイタリアに行く。アッシジのサンダミアーノ教会にいく道であった人々、帰り道の暑く日陰もない長く苦しい上り坂の途上、神に祈ること、話しかけることで、この三年半の間の様々な心の葛藤、結果などを思い起こていると、とても遠くに見えていた町の門が突然あらわれた。そこで初めて「長くて苦しいときにこそ、あわてずに、ひと足ひと足ずつ、少しずつ進んで、その時間を神様にお祈りをする時間にすればよいのだ。神様と一緒に歩けば、遠くて辛いと思うような道でも、ちゃんと行先まで進むことができる。 神様は私の行く道を示し、導いて、支えてくださっている。」とわかった。不思議な体験であった。これからの人生も私の行く道を示してくださるイエス様に導かれる羊の群れのうちのひとりとして歩みたい。

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「良くなりたいか」ヨハネ5:1−18 中村吉基

今日の箇所にでてくるのは、病が癒えると言われている池のそばで、その機会なく38年間病に苦しんでいる病人である。イエスがその人に「良くなりたいか」と質問すると、池に入れない悔しさ、嘆きを訴える。次にイエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と仰る。この病人が正直に言われたとおりにすると、すぐに良くなって床を担いで歩き出した。この日が安息日であったことで後々問題になるのだが、安息日だろうが、平日だろうが、「すぐに」起き上がって行きなさいと主イエスが言われたのであろう。この2千年前の物語を今の我々あてはめてみよう。重大な病気でなくとも、精神的に何かに縛られ囚われ、本来もっている良さが隠れてしまっていないだろうか。つらい目にあっていても、それだけが人生ではない。池のほとりで38年横たわっているのか、起ち上がって前へ進むのか、私たちは今選択を迫られている。私たちの人生に必要なのは主イエスと共に生きることである。38年も池の片隅に横たわっていた人がイエスの「良くなりたいか」をきっかけに新しい人生がはじまったように、私たちも主イエスのみ言葉を心に刻んで歩みだそう。

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「裁きとゆるしと」ヨハネ8:1-11 中村吉基

民衆の前で教えているイエスの前に、姦通で石打ちの刑が決まっている女性が連れてこられる。ファリサイ派と律法学者はイエスに対してモーセを通して神が命じたことに対して主イエスがどのように答えるかと挑発のためである。もし私たちがこの場にいたらどの立場だろうか?イエスはかがみこみ指で地面に何か書き、始め立ち上がって「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われる。そしてみな立ち去るのだが女性は残る。イエスはこの女性に対し「罪に定めない」と言われる。これはこの女性がゆるされたこと、神にいつも愛されていることを思い知って、精一杯に神から与えられた「いのち」を存分に生きてほしいと願われた、また過去に起こってしまったことよりも今日からの生き方に値打ちがあるのだということである。神は人間が再出発するチャンスを与えてくださるのである。我々は裁きの言葉ではなくてゆるしの言葉に聴かなければない。私たちも主のゆるしの中で生かされている。