エレミヤ書2:1-13;マルコによる福音書3:20-27
理解されない主――身内からの誤解
主イエスは家に帰られました。しかし群衆は再び押し寄せ、20節には「一同は食事をする暇もないほどであった」と記されています。同じマルコ3:7-8に記されてあるのですが、さまざまな地方から救いを求める人々が絶えず集まり、主イエスは休む間もなく、食事をする時間を取ることもできないくらいに働いておられました。その様子を聞いたイエスさまの親族の人たちは、心配のあまりイエスさまを連れ戻しに来ます。その一つの理由はこのように噂されていたからでした。「あの男は気が変になっている」(21節)。
ここには深い悲しみがあります。主イエスは敵だけでなく、身内からさえも理解されなかったのです。神の国の働きは、時に常識を超えて見えるのです。熱心すぎる、やりすぎだ、危険だと捉えられる向きがあるのです。しかし神の救いの業は、人間の尺度では測ることはできません。主イエスは人々の苦しみに応え、神の憐れみを示しておられました。その姿は、世の目には「異様」に映ったのです。だから「あの男は気が変になっている」と噂されていたのです。
善が悪と呼ばれるとき――律法学者たちの敵意
さらに、エルサレムから来た律法学者たちはもっとひどいことを言いました。「彼「あの男はベルゼブルに取りつかれている」。ベルゼブルというのは悪魔の支配者の名前です。サタンともいう。だから22節で律法学者はこう言います。イエスが悪魔の力を使って奇跡や病気治しを行なっているというのです。「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」。これは単なる誤解ではなく、明確な「敵意」というか、デマでありました。あろうことか、律法学者たちは神の業を、悪霊の業だと言い切ったからです。
強い者を縛る方――神の国の到来
このとき主イエスは譬えをもって答えられました。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」(23–26節)。
主イエスの言葉は明快でした。もし悪霊の力で悪霊を追い出しているのなら、それは自己矛盾になります。分裂した国は滅びます。分裂した家は崩れます。存在することができないのです。神の国は混乱ではありません。神の国は秩序と回復をもたらします。主イエスのなさっていることは人々を破滅に追いやるのではなく、人々を罪の力から解放するのです。
そして主イエスは今日の箇所の核心の部分を語られます。「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(27節)。
物騒な世の中に私たちは生きています。ここに書かれているようなことが私たちの社会の中で現実に起きていますし、あろうことかこのような事件のニュースが日常茶飯事といってもいいくらいに私たちと隣り合わせに起きています。しかしイエスさまはここでそのような事件に注意しなさいと言っているわけではない。これは譬え話です。主イエスが言われる「強い人」というのはどういう人のことを言うのでしょうか。それはサタン、悪霊、すなわち罪と死の力、人間を縛りつける闇の支配のことを強盗に譬えて言っているのです。主イエスは言われます。わたしはその強い者を縛るために来た、と。悪霊追放は単なる奇跡ではありません。それは主イエスが示される神の国がすでに始まっているしるしなのです。神の支配が、闇の支配を打ち破り始めているのです。聖書において、あるいはキリスト教の信仰において、「光と闇」ということがよく語られます。そしてこの光は神からの光、イエスさまご自身を顕すこともあります。ヨハネによる福音書1:5には「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とあります。かつて使っていた口語訳聖書では「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」と訳されていました。光は闇に打ち負かされることは決してないのです。
私たちを解き放つ十字架――受難節の招き
私たちは自分を強い者だと思いたがる傾向があります。強者か弱者かといえば、私たちは自分のことを強者だと理解し、強者の視点で物事を考える。しかしこれが罪の始まりです。私たちは実際に、恐れや不安、罪責感、自己正当化、過去の傷など、さまざまなものに縛られています。表面は整っていても、内側では自由でないことがあります。今私たちはイエスさまの御苦しみを思い、受難節の時を歩んでいます。受難節の最初の日を「灰の水曜日」と言います。私たち人間は旧約聖書創世記の冒頭に「土のちり」を集めて神によっていのちの息を吹き入れられたと書かれています。私たちは強者なんかじゃないんです。吹けば飛ぶような土のちり、燃えかすの灰なのです。私たちはちりであり、いのちの旅を終えた時に、またちりに帰る存在です。私たちは弱く、限られた存在です。
しかし主イエスの福音の教えは語ります。キリストは私たちを責めるためではなく、縛っている力を縛るために来られた、というのです。十字架は敗北のしるしではありません。そこにおいて、罪と死の力は決定的に打ち破られました。復活は、その勝利の宣言です。
律法学者たちは、自分たちの立場や理解を守ろうとしました。神の業を前にしても、それを認めることができませんでした。なぜなら、それを認めれば、自分たちの世界が揺らぐからです。私たちも同じ誘惑にさらされます。神の導きが、自分の計画と違うとき。祈りの応えが、自分の願いと違う形で現れるとき。私たちは主を疑い、自分の理解に固執してしまいます。
しかし今日の聖書の言葉は語ります。神の国は、静かに、しかし確実に到来している。強い者はすでに縛られ始めている。だから恐れなくてよいのです。
主イエスは「気が変になっている」と言われ、「悪霊に取りつかれている」と非難されました。それでもなお、歩みを止めることはありませんでした。人々を解き放つために、十字架への道を進まれました。
受難節の歩みの中で、私たちは自分を縛っているものを主の前に差し出したいと思います。怒り、嫉妬、執着、恐れ。あるいは、神を自分の枠に閉じ込めようとする心。主はそれらよりも強いお方です。
「まず強い人を縛り上げなければ」と主は言われました。その主が、すでに働いておられます。私たちの内に、教会の中に、この世界のただ中に。
神の国は遠い未来の出来事ではありません。キリストが来られたとき、すでに始まりました。そして今も広がり続けています。私たちはその中に生かされています。
強い者を縛る主に信頼し、自由へと招かれていることを覚えつつ、受難節の歩みを続けてまいりましょう。