「幸せよりも真実を」マルコ2:1-12 中村吉基

列王記下4:18-37;マルコによる福音書2:1-12

祈りは本当に力を持つのか

世界中で現在「祈り」についての研究が盛んになされています。今までどちらかと言えばお祈りについてあまり重要視してこなかった科学や医学に携わっている方々も、お祈りについて見直しをしています。そのお一人であるアメリカ人のドリー・ラッシーさんは、カリフォルニア大学でこのような実験をしました。

心臓病の患者さん393人を2つのグループに分けました。192人と201人です。そして192人のグループだけを憶えて毎日他の人達から内緒でお祈りをしてもらいました。すると192人のグループでは9人だけが病状が進行したのに対して、201人の方は48人の人が進行しました。

もう一つはミズーリ州の病院での実験です。
今度は1000人の患者を2つのグループに分けて、一方の患者のグループにだけやはりお祈りをしていることを「知らせないで」、他の人達から祈り続けてもらいました。そうするともう一つのグループの患者さんに対して10%も快復が早かったという結果が出ました。

またやはりアメリカのデューク大学が1986年から92年にかけて行った実験では、65歳以上4000人を対象に調べてみますと、毎日お祈りする習慣のある人は、祈らない人に比べるとずっと長生きしたという結果が出ているそうです。

今お話した3つの実験には本当に祈りの効果を実証しているものなのかといえば、論争があるようですけれども、いずれにしてもお祈りをする人にも、祈ってもらう人にも祈りは良い効果があるのだということではないでしょうか。そうであるならば、私たちの周囲で困っている人がいる時に、相手に知らせなくても、私たちが祈ることで、神さまはそれをとりなしてくださり、相手の力に繋がることでしょう。

屋根を破ってでもイエスのもとへ

今日の聖書の箇所は、ガリラヤ湖に近いカファルナウムにイエスさまの一行が来た時の出来事です。イエスさまはある家を開放してもらって家庭集会で御言葉を語っておられました。天の神さまについて教えておられました。皆さん頭のなかでこの場面を想像してみてください。立錐の余地もない大勢の人でその家は賑わっていました。賑わっていたと言っても、きっと静かだったのだろうと思います。イエスさまがお話くださる神の国について。「神の国はこのようなところだ」「神の国の主人公は皆さんだ」とイエスさまの御言葉の一節一節を聞き漏らさないように、人々は静まり返っていたことでしょう。

そこに中風(脳血管障害の後遺症である半身不随、片まひ、言語障害、 手足のしびれやまひ)の人が、4人の男を伴ってやってきました。私たちの聖書では2節に「病人の寝ている床」とありますが、貧しい人たちが使うせんべい布団のような、くるっと巻いてしまっておけるような…そしてマタイとルカの福音書にもこの物語は収録されていますが、マタイは「寝台」とか「ベッド」などと描きますし、ルカの方は「小寝台」「簡易ベッド」などまた違う言葉の表現がされています。ともあれ体の麻痺したこの人もイエスさまの御言葉を聴きにきました。しかし、連れてきた人たちの信仰の熱心がそうさせたのでしょう。驚くべき行動に出るんですね。イエスさまが家の中におられたあたりの屋根をはがして、穴を開けて、そこから床を「つりおろした」とありますから、ロープも使われたのでしょう。またルカによる福音書5章19節には「瓦をはがし」とありますので、いくら信仰熱心がそうさせたと言っても、家主にとってはたまったものではありません。当時の中東の家というのは、茅葺のような屋根です。木の枝で表面を覆い、その下には藁を敷いて、そして土台は粘土が使われたようです。とても暑いところですから、熱を遮るなどして、3層構造だったわけです。そういうところに穴を開けるというのは、ホコリがたったり、破片が落ちてきたりと下におられるイエスさまたちにもかなりの危険があったと考えていいと思います。

運んでいる4人の男たちのほかにも、もしかしたら、中風の人の家族や親族や、友人にイエスさまの評判を聞いていた人が居て、藁にもすがるような思いで、ここに連れて来てもらったのではないでしょうか。居ても立ってもいられない中風の人を愛する思いが多くの人を駆り立てたのでしょう。私はこの4人の男たちというのは、多くの人の「お祈り」と「愛」とを体現している表現であろうと思います。

この4人の男たちも多くの人の祈りに押し出されてイエスさまのところまであと一歩という場に差し掛かって引き返すわけには行かなかったのでしょう。少々手荒なことをしてまでも、イエスさまに中風の人の罪を赦していただきたい、その一心で屋根に穴まで開けて人を吊り降ろしました。

大胆な信仰と赦しの宣言

信仰は時には危険を犯すものです。また信仰は自分でも信じられない、とてつもない力を発揮します。また信仰とは大胆なものです。中風の人を運んだ4人がこれほどまでに大胆なことをしたのは、そこにイエスさまがおられたからです。イエスさまは皆さんの内に生きておられます。皆さんはイエスさまに出会っているでしょうか。イエスさまの癒しの力を身に受けているでしょうか。私たちも、入り口からでも、窓からでも、屋根からでもイエスさまを礼拝するものに変えられたいのです。

私たちはともすれば自分の幸せのことばかり祈ります。皆さんの祈りの一節一節に「もしみ心ならば……」と付け加えてほしいのです。私たちはいつも「主の祈り」でこのように祈っていまます。「みこころが天で行われるように 地上でも行われますように」と。たとえば私たちが病気にかかったとします。その病気を一身に治したい。再び元気になりたいという思いが溢れます。自分でも祈ります。でも自分の信仰の病気、たましいの病気、罪(神との関係)の問題について祈ることがあるでしょうか。罪を赦されたい。罪にまみれる中から神さまに清めていただきたい、そのことについて私たちはどれだけ願っているでしょうか。

イエスさまはまず中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言しました。イエスさまはこの人に「子よ」とお優しい言葉で呼びかけました。なぜイエスさまがそうおっしゃったのか。まず罪が赦され、神さまと和解することによって肉体の病気も癒やされるとお考えになっていたからです。しかし、私たちはいつも逆のことをやってしまうのです。何が何でも肉体のほうを先に癒やしていただいて元気になりたい。たましいや信仰の問題は後回しにしてしまいます。

キリストという真実に向かう旅

イエスさまがまず神さまとの関係を良くすることによって肉体の癒しを宣言されました。イエスはキリストである。イエスさまは救い主であることが明らかにされました。この出来事を見ていた人たちの中に、イエスさまの宣言された御言葉を憤慨する人たちがいました。それは「人よ、あなたの罪は赦された」という御言葉、これに対して「神を冒涜している」と問題にしたのです。誰が問題にしたのかといえばユダヤ教の律法学者たちでした。彼らは、このところ噂になっていて、評判の高かったイエスさまを密かに見に来ていたのです。

イエスさまは、聖霊の力によって律法学者たちの考えていることを察知しました。そしてこう言われました。

「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

そして、律法学者たちが見ている前で、中風の人に向かってこう言われました。

「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」

そうすると、中風の人に奇跡が起こり、彼は自分の力で立ち上がり、寝ていた台を取り上げて、神さまをほめたたえて家に帰っていたと記されてあります。イエスさまはこの人に「子よ」とお優しい言葉で呼びかけられたあとに、「家に帰りなさい」と仰せになったのには、この貧しい病気の人が、社会の共同体に再び戻されていくということを意味しています。

私たちの信仰は「ご利益」を求めるものではありません。「真実」を求めるものです。世間のある人たちは、宗教というものは幸福になるためのシステムのように理解されていることが多いことでしょう。

しかし、私たちの信仰はそうではありません。

幸福というものを求めれば、求めるほど人間は自己中心的になるものです。
私たちの信仰は真実を説く教えであり、信じれば幸福になるという類のものではなく、真実に照らされることにより、自分の弱さ、小ささ、そして罪深さが明らかにされるのです。自分がどういう存在なのかということが明らかにされれば、この先、私たちが進んでいく道というものが示されて生きます。私たちは、イエス・キリストという「真実」に向かう旅をしているのです。
中風の人を担いできた男たちもそうでした。イエスさまという真実を目掛けて一直線に進んできたのです。