「新しく生まれ変われる」マルコ1:9-11 中村吉基

出エジプト記14:15-22;マルコによる福音書1:9-11

イエスさまはユダヤ地方のベツレヘムで生まれましたが、自分の命を狙っていたヘロデ大王とその子アルケラオから逃れて、ガリラヤ地方のナザレでお育ちになりました(マタイ2:1,22-23)。イエスさまは成人してナザレから出て来たのでした。イエスさまがマリアの胎内にいて、洗礼者ヨハネがエリサベトの胎内にいた時、マリアのあいさつをエリサベトが聞くと、そのエリサベトの胎内のヨハネは躍った(ルカ1:41)と聖書は告げています。洗礼者ヨハネは実際に自分の目の前のイエスさまに出会い、飛び上がりたいばかりの喜びに満たされていたのだろうと推察できます。

神の子としての洗礼

ヨルダン川で洗礼運動を行っていたヨハネの授けていた洗礼は、人が回心をして神に立ち帰るためのものであり、人々は彼に洗礼を授けてもらう前にこぞって罪の告白をしたのでした(マルコ1:5)。しかし、罪なき神の子は、当然というかそこで罪を言い表すこともありませんでした。ですから、イエスさまが受けた洗礼は回心というよりも、神から遣わされた神の子として、十字架の出来事を経て、また神のもとに立ち帰ることをその歩みの中で行ったのです。

今日のマルコによる福音書では、1章の冒頭でまず洗礼者ヨハネを紹介してすぐ、次にイエスさまがそこに来て受洗します。イエスさまが生まれ育ったのはガリラヤのナザレでした。ガリラヤ地方は、権力から遠く離れた軽蔑と疑惑の対象の地でした。そしてナザレはとても小さな村(人口約300人)でもありました。イエスさまは、当時の人々の感覚からすれば、すでに熟年といってよい30歳頃になって、ヨルダン川の下流のほうにいたヨハネのいるところに行ったと考えられます。

新しい時の始まり

そして、10節をごらんください。イエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた後に、通常ならば「川から上がった」と記しそうなところを「水の中から上がると」とあります。やがてこれはイエスご自身から授けられる「火による洗礼」を強調するためだとする学者もおります。天が裂けて聖霊が鳩のように自分に降るのを見たように、イエスさまはこれから人々に火による洗礼を授けていく使命にありました。それは、人々を徹底的に清めて、迫り来る神の怒りから人々を救うためでした(マタイ3:7)。

この節の後半部分はイザヤ書11章1–3節に記された預言が成就したと考えられています。新約聖書の最初のページのマタイによる福音書はイエス・キリストの系図を記していますが、イエスさまはエッサイの子ダビデの子孫としてお生まれになり(マタ1:1)、主の霊が自分に下った。この霊は、イザヤの預言のことばによると主を知る霊であり、主を恐れる霊であり、これは、イエスご自身が神の怒りについてよく知っており、それを恐れ敬っていることを示している。したがって、イエスさまは人々を神の怒りから早急に救う必要を感じているのである。

鳩は温厚な動物で、平和のシンボルであることを皆さんご存知であろうと思いますが(マタイ10:16)、神が霊(聖霊)を神の子であるイエスさまに降す時に相応しい象徴として、ここに描かれています。

旧約聖書創世記のノアの物語には、彼が箱船から鳩を放した後、その鳩がオリーブの葉をくわえて帰って来たことで洪水が間も無く収束することを知ったように(創8:11)、神の霊が鳩のようにイエスさまのもとに降ることは、水による洗礼が終わったことを示しています。ノアの箱船の物語は、洗礼のひな形として語り継がれてきました。

「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水を前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなた方をも救うのです」(ペトロの手紙Ⅰ3:20–21 432ページ)。

ノアの箱船に乗り込んだ人々が洪水から救われたように、洗礼者ヨハネによる回心の呼び掛けを受け止めた人々はヨルダン川の水の中を通って、今やイエスさまによる火の聖霊の洗礼を受けて救われる道が開かれたのでした。

「あなたはわたしの愛する子」と、荒れ野へと一歩を踏み出す祝福

さて、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたその時です。神が口を開いたかのように祝福の言葉が聞こえてきました。それが11節の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた」というものです。神は、子であるイエスに対して声を掛けているのです。

ある学者は、ここを「創世記の冒頭と似ている」と言います。旧約聖書創世記の1章では、神が初めに天地を創造した経緯が記されていますが、神は自ら造ったものを見て「良い」としている(創世1:4,10,12,18,21,25,31)からです。同じように、今日のマルコによる福音書の冒頭では、神の子イエスが天地の造られたものに福音の宣教を開始する経緯が記されていますが、神は子であるイエスをご覧になって「良い」と思われたのです。

神は罪ある人々と同じようにして洗礼を受けられた主イエスをこの上もなく喜ばれ、受け入れられました。主イエスが洗礼を受けられたということは神の子でありながら、私たち人間と同じように歩み、同じ目線で、同じ姿で、同じ立場で生きられた主イエスの姿勢をよく表しています。それと同時に、自ら一歩進み出て、ご自分の意志で洗礼をお受けになったことで、聖霊が与えられた。言い換えれば、自ら決断して一歩を踏み出すところに、神の祝福が備えられている、ということです。このあとイエスさまは荒れ野に出て、そして神の国の福音を宣べ伝えて行きます。

イエスさまには神の力である聖霊が与えられ、神の祝福を受けられました。今日の聖書の箇所の共に聴いた私たちの歩みも振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。今、自分の前に用意された場で生きていればそれでいい、あるいは暖かくて心地の良い部屋でゆっくり過ごせばいい、私たちはそのように思いがちです。一歩自分の置かれた場所から進み出ていく、すなわち行ったこともない「荒れ野」に出て行くことが求められているのではないでしょうか。そこで恐れることはありません。神は、皆さんお一人お一人を愛しておられて、主イエスのみならず、皆さんにも「(皆さんは)わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださいます。私たちは神さまに背中を押されて安心して進んで行って良いのです。そこで私たちは新しく生まれ変わることができるのです。

【洗礼の約束の更新】

今、目をとじて私たちがそれぞれに洗礼を受けた日のことを思い起こしましょう(まだ洗礼をお受けになっておられない方は主イエスが今日私たちにかけてくださった言葉を心に留めて黙想しましょう)。

(祈りましょう)イエス・キリストのいのちの源である神、私たちに洗礼の恵みを通して新しいいのちを与え、私たちがあなたへと向き直す機会を与えてくださいました。あなたの恵みによって私たちがいつまでもイエス・キリストに結ばれていることができますように、お導きください。聖名によって祈ります。アーメン。