イザヤ書40:1-11;マルコによる福音書1:1-8
「主よ、来てください」
教会では「マラナ・タ」という言葉を用います。 賛美歌の歌詞にも、あるいは教会の名前にもありますが、今日の聖餐の時にも歌いますけれども(「主の食卓を囲み」)、これは主イエスが使っていたアラム語で「主よ、来てください」という意味の言葉です。コリントの信徒への手紙でパウロが用いた言葉ですが、主イエスが再びこの地上に来てくださる時には、苦しみや悲しみや病や争いが無くなり、そしてすでに天の神のもとに帰っていった人々にも会うことができ、共に手を取り合って喜びを分かち合うことができることを強く信じて、当時のキリスト者たちの間で使われた言葉です。この礼拝の最後に歌う賛美歌もそうです(「主よ、おいでください」)。私たちもそれにならい「主イエス、来てください」と祈り、賛美の声をあげながら、信仰の道を進んで参りましょう。
荒れ野に響く声
今朝クランツに2本目のろうそくの光が灯りました。今日は待降節第2主日です。アドヴェントには毎週名前が付けられています。平和の主日ともいいます。いよいよ世界の歴史の中に、神の救いが実現したことを聖書は告げます。
マルコによる福音書はまずイザヤが預言した洗礼者ヨハネの歩みを、神の救いの歴史の始まりとして語り出します。しかし今朝私たちが注目するのはヨハネその人ではありません。ヨハネが指さした救い主イエスです。マルコ1:7に「わたしよりも優れた方が、あとから来られる」と語るヨハネの役割は、まさに主の道を整える者 でした。
4,5節にこう記されています。
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
当時のユダヤはローマ帝国の圧政の下にあり、重税や差別に苦しむ中で「メシアはまだか」と叫びをあげていました。そこにヨハネが現れ、神さまの平和のメッセージを告げ、人々の心が神へ向き直るための道を整え始めたのです。それはまさにイザヤが語った「荒れ野で叫ぶ者の声―主の道を整えよ」の実現でした。
ヨハネは荒れ野で神の言葉を受け、ヨルダン川で人々が神に立ち返るよう洗礼運動を始めました。人々はヨハネの姿に、あの旧約の預言者イザヤが告げた言葉を重ねて見るのです。それが2,3節までの言葉です。
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
荒れ野を越える道―神が開かれる救いの道とは
皆さんは「荒れ野」と聞くとどのような場所を思い浮かべるでしょうか。
旧約の時代、バビロン捕囚に遭ったヘブライ人たちにとって、荒れ野はエルサレムとの間に広がる、絶望の象徴でした。
荒れ野があったために彼らの心のよりどころエルサレムは遠いはるか彼方にある故郷だと感じていたことでしょう。ヘブライ人たちにとって、荒れ野は隔ての壁でした。絶望さえ感じる場所でした。荒れ野を通って帰らねばならない限り、荒れ野は死の場所でした。
大国バビロニアの捕囚に遭っていた弱小の国イスラエルは神さまがあの何もない荒れ野に敷いてくださる「救い」という道を通ってふるさとに帰ることができるのです。これが捕囚に遭いどん底の気持ちでいた人たちにイザヤを通して告げられた救いのメッセージでした。
そしてヨハネが洗礼を宣べ伝えていた「荒れ野」は少なくとも渋谷のようなところではありません。クリスマスの華やかなムードがあって、物質に囲まれ、人がたくさん集まってきて、楽しい、うれしい雰囲気のところとはおおよそ無縁の場所です。今日のヨハネのメッセージは物のあふれる豊かさに慣れてしまった私たちに対しても語られています。
イザヤ書40章では、荒れ野に「呼びかける声」が響きます。
「主の道を整え、道筋をまっすぐにせよ。」
ここで告げられたのは、神がご自身で 救いへの道を荒れ野に切り開いてくださる という希望でした。谷は埋められ、山は低くされ、険しい道は平らになっていく。絶望のただ中にこそ、神が通られるための道が備えられるのです。
ヨハネが立った荒れ野も、私たちが生きるこの時代も、華やかさや物質的な豊かさとは程遠い闇を抱えています。その「荒れ野」に、神は今も道を造り続けておられます。
神さまははるか昔、この世界が始まる時から人間を愛してくださっていました。そしてそれだけではありません。数々の恵みをくだし、人間を導いてこられました。これは私たちにも大いに関係のあることです。そして神は私たち一人ひとりのいのちをも創造されました。神さまがおられなければ私たちの存在もありえなかったし、私たちが今日まで生きてくることもできなかったのです。しかし、私たちはすぐに神を捨て、無視し、背を向けて生きてしまいます。自分の好きなように、楽しみを求めて神を離れようとします。それを素直認め、反省しながら神のほうに方向転換することを「悔い改め」と言うのです。
心に主の道を整える
ヨハネはヨルダン川で洗礼を通して人々に悔い改めることを伝えました。「悔い改め」と聞くと、私たちは自分の普段の生活の中での悪い点を反省し、改善することや罪を犯したことを糾明し、もう二度とそのようなことをしない、と誓うことのように思われます。しかし、悔い改めというのはそれにとどまらないのです。悔い改めの本来の意味とは「神に立ち返る」ということです。それは私たちの生活の一部をちょこちょこっと手直しすることではなくて、私たちの心も身体も、存在すべてをかけて神様のいるところに向きを直すことが悔い改めるということなのです。それまでは神を知らなかったかもしれない、また神を知っていたとしても、神様のお望みになる方向とはまったく違う生き方をしていたなど、さまざまな人がいますが、180度神に立ち返ることこそが「悔い改め」ということなのです。つまり 私たちの心に主がおいでになる道を整えることです。
これを簡単に言うと、神と私たちとが「出会うこと」をヨハネ、そしてイエスさまが導いてくださったことにほかなりません。私たちの毎日の生活は荒れ野での生活かもしれません。苦しいこと、悲しいこと、悩めること、そんなことが山積しているこの闇のような世において、光としてイエスさまは来てくださいました。ある人にとっては毎日が何も見えないような真っ暗闇かもしれません。けれども闇の中にも、それは私たちに最初は見えないかもしれません。でも私たちが暗い所にずっといると目が慣れてくるように、闇の中にも、希望がないようなところにも神さまの愛は働き続けています。その闇の中に神さまの愛を発見する時、荒れ野の真ん中で神さまのみ声に聴く時、私たちはその時本当に神さまに出会うことができるのです。私たちが神さまを感じ、神さまの愛に生かされていると感じるのは、たとえば物質的なものが与えられたとか、願っていたことが実現したというような中で感じられるものではなく、私たちが本当に苦しくて、苦しくて、もう荒れ野の中で叫びたくなるような時にこそ感じられるものです。
荒れ野のような人生の苦しみの中でこそ、私たちは神の声を聞き、神の愛に出会うことができます。光が見えない闇にあっても、目が慣れるように、私たちはやがて神の働きを見いだすことができます。そしてその時、神の指が私たちの心に触れられるのです。
神の子イエスは、私たちが背を向け続けていても来てくださいます。しかし、ただ何となくクリスマスを迎えるのではなく、主が通られる道が私たちの心に整えられているか を見つめ直しながら、この待降節の一日一日を歩みたいと思います。