創世記45:1-15;ヤコブの手紙2:1-13
神はえこひいきをされない
あるとき教会に金持ちの人が入ってきます。ここで具体的に描写されています。金の指輪をはめて、立派な身なりの人が教会にやってきました。当時のパレスチナではよく見慣れた金持ちの姿です。ユダヤ人だけでなく、異邦人であったかもしれません。おそらく礼拝が始まろうか、というような時にです。するとその人を見て、教会員が声をかけてきました。「さあ、どうぞこちらに良い席が用意されています」。相手を尊重することはいいのですが、一方で汚らしい服装の貧しい人に対しては、「あなたはそこに立っているか、私の足置きの隅にでも座りなさい」と言うのです。まるで犬のような扱い、でも最近では贅沢なワンちゃんもたくさんいますから、今で言えば動物以下のような待遇をするのです。貧しい人は、ただ貧しいというだけで、椅子にも座らせてもらえないのです。
貧しい者と富める者──教会内の格差
ヤコブはこれをひとつの例として語ったことでしょう。しかし、なぜこのような例話をしなければならなかったのか、それはやはり当時の教会に似たような差別体質、差別構造があったからでしょう。無意味な例話であればしなくてもよいはずです。しかし、このたった5章しかない短いヤコブの手紙の中で、貧しい人に焦点を宛てた記述はいくつも見受けられます。たとえばこのあとの2章15節に「着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている」人が出てきます。そこには「兄弟あるいは姉妹」と書いてありますから、当時の教会のメンバーであったことがわかります。
4節をごらんください。
あなたがたは自分たちの中で差別をし、誤った(聖書協会共同訳:悪い)考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
1節の言葉を借りますと「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」教会員同士の中で「差別」するとはどういうことですかと問うているのです。
私たちの態度に潜む「えこひいき」の影
教会のことだけではありませんが、私たちにもこういうことがあります。何かの機会に有名人に出会ったとか、世の中で成功している人、あるいは裕福な人には普段とは違う態度で接してはいないでしょうか。しかし、自分に利益をもたらさない人に対しては手のひらを返したように、素っ気ない態度、時には不愉快な態度で接していることがあります。
仏教の言葉に「和顔施(わがんせ)」というものがあります。和やかな顔つき、穏やかな表情で、相手を見つめる。相手を受け入れる。歓迎する。慰める。励ます。感謝する。私たちの顔つきひとつをもって、ほかの誰かに施しをするのです。私たちは、イエスさまがそうであったように人に分け隔てなく、接しなければなりません。私たちの内側にイエスさまが生きておられます。それと同じように相手の内側にもイエスさまがおられるのです。これはクリスチャンであろうと、クリスチャンでない人においても同じです。
明治期に日本で伝道した牧師、たいへん有名なキリスト教の指導者でしたが、彼は「我輩の教会には土方や丁稚はいらない」(傍線ママ)と放言して、つまり今の言葉で言うと、建設現場の作業員や会社の研修生、住み込みのバイトなどと言ったらいいでしょうか。そういう人よりも、大学教授や弁護士、裁判官などを信徒にしようと伝道したのです。また現代でもある教会で伝道集会のチラシ配りをしようとしたときに牧師が「あの地域は避けなさい」「あの地域の人が来れば教会員がいやがるから」と言ったという差別事件もありました。こういうことを挙げればキリがありません。先の明治期の牧師のことにしても、この人だけがこういう体質を持っていたわけではなかったと思います。東京では日本を代表するような大学の周りに古い教会がいっぱいあります。明治期に欧米からやって来た宣教師たちは将来の国を担う優秀な大学生に伝道をしようと教会を建てたのです。そこには貧しい人や教育を受けられない若者を教会に招く視点はなかったと言えるでしょう。現代の教会にも財力のある人、社会的地位のある人が、教会の中で発言力があることがあります。その人たちが望むような教会になっていくということです。
神が選ばれるのは貧しい者
ヤコブはそこに警鐘を鳴らします。5節をごらんください。
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
人をえこひいきすることがいかに神の御心に反するのか、聖書では貧しいものこそが、神に選ばれて、信仰に富むものとなって神の国を受け継ぐものとされているからです。神が愛されて、選ばれたのは、この世の価値観に反して、貧しい人たちであったのです。
献げ物と特権扱いの危険
おそらく当時の教会でも、教会を経済的に支え、「出資者」のような役割を果たしている人を特別扱いしたと考えられます。たとえば、教会にどなたかから大金が献げられたとします。経済的に困窮している教会にはありがたいことです。その人も大きな決断をして献げてくださったことでしょう。しかし、献げた本人がそのことを鼻にかけ、我が物顔で振る舞うならば、神を悲しませることになるのです。それよりも少額でも喜びをもって献げたほうが、教会にとっても、献げた一人ひとりにとっても有益です。教会は誰に対しても平等で、偉そうな振る舞いをする人がいてはならないのです。長く教会に来ている人も、今日教会に初めて来られた方も同じように扱うのが「神さま流」の振る舞いです。神を中心に教会は形成されていきます。
なぜ人をえこひいきするのか
それではなぜ私たちは人をえこひいきするのでしょうか。8節のところにイエスさまの「隣人を自分のように愛しなさい」というみ言葉が引用されていますが、私たちはなかなか「自分のように」他者を愛することができないからです。そこに人を分け隔てする原因があります。そしてそれを言い換えれば私たちの中に「憐れみ」がないということなのです。最後の13節に「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」。ほかの誰かを憐れむことができない人は、自分自身も神に憐れまれることはない、ということです。
えこひいきしない愛の教会へ
イエスさまは、たびたび「深く憐れまれた」と福音書の中に記されています。「はらわたがよじれるほどに」憐れまれたのです。私たちは自分を犠牲にしてまで、自分の傷になるほど痛みを感じてその人を愛した、憐れんだことがあるでしょうか。たいていは自分が傷つかずに、不利益をこうむらないように少し距離を空けてその人に接しているのではないでしょうか。自分の立場や、思うままに相手を支配していないでしょうか。「えこひいき」が起こる原因はそこにあります。私たちは、無条件に、自分の利益を考えずに、最期まで自分本位ではなく、「相手本位」だったイエスさまの姿に倣い、それぞれが生きて、また教会を形成する一人になりましょう。