エゼキエル書37:15-28;コリントの信徒への手紙I1:10-17
パウロは冒頭で「兄弟たち」と呼びかけています。これは、単に親しい友人に語る言葉ではなく、「同じイエス・キリストを救い主として信じる者」という意味です。パウロが「あなたがたに勧告します」と言うと、少し堅苦しく響きますが、当時の教会では互いに勧め、励まし、慰め合うことはごく自然な営みでした。
しかし、コリントの教会では深刻な分裂が生じていました。だからこそパウロは「固く結び合いなさい」と呼びかけたのです。この言葉には、漁網を繕うときの「結び直す」という意味や、「完全にする」という意味もあります。人間関係が裂けてしまうことがあっても、キリストの名によって教会を建て上げ、完成へと向かっていきなさい――それがパウロの願いでした。
コリント教会の分裂
12節にはこう記されています。
「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」。
アポロはアレクサンドリア出身のユダヤ人で、聖書に通じ、雄弁で熱い信仰を持つ人物として人々に尊敬されました。ケファはペトロのことです。そして「わたしはキリストにつく」という人々もいました。本来これが最も正しい姿です。
私たちもそうですが、信仰生活の初めには、信仰の手ほどきをしてくれた指導者に強い思いを抱くことがあります。しかしパウロは言います。「キリストはいくつにも分けられてしまったのですか」。救いを与えるのはパウロでもアポロでもなく、ただキリストだけなのです。
人ではなくキリストに属する
13節でパウロは問いかけます。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」
当時は「イエスの名による洗礼」も行われていたといわれますが(現在の教会では三位一体の神に名による洗礼)、いずれにせよ救いの源は「人」ではなく「神」です。だからこそ、パウロは「クリスポとガイオ以外に洗礼を授けなかったことを感謝する」と述べています。クリスポは会堂長であり、家族とともにクリスチャンとなった人物です。
パウロは、自分が人を従わせるために働いたのではないと強調します。信仰の中心は指導者ではなく、ただ十字架の主イエス・キリストにあります。
宣教の目的
さらにパウロは17節でこう言います。
「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるため」であると。
しかも、その福音は。人間の知恵に裏打ちされた言葉によってではありません。「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」と語るのです。
つまり、教会の中心は指導者の雄弁さでも、洗礼をたくさんの人に授けて組織を強さするのでもなく、ただ「十字架と復活の恵み」にあるということです。
私たちが学ぶこと
コリント教会の分裂の姿は、現代の教会や社会にも通じます。
「誰の説教が好きか」「どの神学に属するか」「どのグループに所属するか」。こうした違いから派閥や対立が生まれがちです。しかしパウロが13節で「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」と言うことによって、「キリストは決して分裂していない」のだと宣言しているのです。
私たちも、意見や立場の違いを超えて「キリストに結ばれた一つの群れ」であることを大切にする必要があります。
十字架に目が釘付けとなる?
ここで1つのエピソードをご紹介します。これは数年前の「教会たより」でもしょうかいしたものですが、韓国のある地方に2つのカトリック教会があり、信徒が増えて3つ目の教会を建てることになりました。ところが、2つの教会から集められた信徒たちは、礼拝の仕方や活動の違いをめぐって深刻な対立を生んでしまいました。
そこで神父は特別な十字架を作りました。その十字架は左右が欠けたような奇妙な形をしており、イエスは重い十字架を担い、苦しそうに右を向いています。その姿は「自分たちの争いやエゴがイエスを苦しめている」という象徴でした。信徒たちはこの十字架を前にして、自分たちの対立を見直し、協調への道を歩むことができたのです。

イエスの十字架は、私たちが「自分のため」ではなく「他者のため」に生きることを示しています。主イエスは「仕えられるためではなく、仕えるために」来られました。その姿が十字架において最も明らかになりました。
私たちへの問いかけ
イエスは今、私たち一人ひとりに問われます。
「あなたは本当に、わたしに従うことができるか。」
私たちは誰かの痛みや重荷を担うときにこそ、本当の意味で人を愛する者とされます。そして不思議なことに、私たちが誰かの十字架を担うとき、別の誰かが私たちの十字架を担ってくれるのです。
こうして互いに支え合い、十字架のもとで一致する群れ――それがキリストの教会です。
私たちの中にある分裂
コリントの教会の姿は、今の私たちの姿にも重なります。教会の中での考え方の違い、好き嫌い、時には礼拝の形式や音楽、信仰の理解の差で対立することもあります。社会でも同じです。政治の立場や思想の違い、価値観のずれから「私とあなた」を隔て、対話よりも対立が前面に出やすい時代に私たちは生きています。
けれども、パウロの言葉は思い出させます。私たちを一つにするのは、だれか人間の指導者でも、意見の一致でもなく、ただ十字架にかけられたキリストの愛なのだ、と。
十字架による一致
パウロは「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためだ」と語ります。パウロは洗礼を否定しているわけではありません。けれども、それを「誰から受けたか」という誇りや派閥の印にしてしまうことは、福音の力を空しくします。
十字架とは、神が私たちの分裂や罪を引き受けてくださった出来事です。当時のパウロが考えていたには「今もキリストは十字架につけられたまま」。人と人とが分かたれる理由をすべて担い、和解をもたらすためにイエスは死なれました。だからこそ、十字架を見上げるとき、私たちの誇りや派閥心は崩れ去り、互いに赦し合い、支え合う者となれるのではないでしょうか。
たとえば……
私たちが「一致する」とは、すべて同じ意見になることではありません。多様性は神がくださった恵みです。大切なのは、「異なる者どうしが、キリストにあって一つにされる」ということです。
礼拝の中で現代的な賛美歌がいい、古い文語体の賛美歌がいいというようなことがよく聞かれます。礼拝のスタイルが違っても、共にキリストを仰ぐことは可能です。また社会の課題に向き合うとき意見が分かれても、共に祈り、愛をもって仕えることができます。そして家族や友人との関係に違いがあっても、キリストが私たちを受け入れてくださったように、互いを受け入れることができます。
一致とは、私たちの努力で作り出すものではなく、キリストの十字架のもとで神が与えてくださる賜物なのです。
おわりに
「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」というパウロの問いかけは、現在にも響きます。答えはもちろん「いいえ」です。キリストは一つであり、その十字架はすべての人に開かれています。私たちが誇るべきは、人間の指導者でも、派閥でも、考え方でもなく、ただ十字架にかけられた主イエス・キリストです。そこにこそ真の一致があり、分裂を超える希望があります。どうか私たちも、互いの違いを抱えながら、キリストの十字架のもとに集められ、一つのからだとして歩んでいきましょう。
祈り
主イエス・キリストよ、あなたの十字架のもとで、私たちを一つにしてください。分裂や誇りを取り除き、愛によって結び合わせてください。教会があなたのからだとして、この世に福音を証ししていくことができますように聖霊を豊かに注ぎ、私たちが平和の器として生きていくことができますように。