「あなたは私の愛する子」マタイ3:13-17 中村吉基

サムエル上16:1-13a;マタイによる福音書3:13-17

2025年が明けて2回目の主の日です。今日は主イエスが洗礼をお受けになったことを記念する日です。主イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのですが、これは主イエスの誕生からおおよそ30年を経てからの出来事でした。今日からしばらく公現後という期節に入りますが、主イエスが世界の救い主としてお生まれになったことを記念する1月6日の公現日でした。私たちは一足早く12月29日の礼拝で東方の学者たちが幼子に対面した物語をマタイによる福音書から聴きました。今日の主イエスの洗礼の物語はそれとは無関係ではありません。「神の子」としてのイエス・キリストの公生活の始まりがこの洗礼の出来事にあるからです。いわば主イエスが公に活動を開始した日のことです。実際には来週の主日から主イエスの具体的な活動についてマタイによる福音書から聴いていきますが、今日は主イエスの洗礼の出来事を通して、私たち一人ひとりの「洗礼」についてそれぞれ思いを向けたいと思うのです。

洗礼者ヨハネが登場します。荒れ野から人びとが悔い改めること(神に対して向きを直す)を呼びかけ、ヨルダン川において洗礼を授けていました。いわゆる「洗礼運動」を繰り広げていました。マタイ福音書には具体的に記されていませんが、ルカの3章でヨハネは「群衆」に対して語りかけ、「民衆が皆洗礼を受け」(21節)とありますからずいぶん大勢の人が洗礼を受けたようです。そうであるならばおそらくヨハネの洗礼運動のことは、人びとの話題になっていたかも知れないですし、ブームになったかも知れないのです。この時の民衆は皆メシアの到来を待ち望んでいました。ですからヨハネがそのメシアであると思って洗礼を受けた人たちもいたはずです。水は汚れを洗い清めます。

バプテスト教会という教派の教会があります。バプテスト教会の人たちが大切にしておられる「浸礼」と言う仕方、すなわち水の中に全身を沈めて、次の瞬間、水から出てきた時に「新しく生まれ変わる」「神に背を向けていた自分の生き方を向き直す(悔い改め)」という意味を込めて、新しい生き方、神とともに生き、人間中心から神中心の生き方へと出発をする時がヨハネの洗礼でした。

主イエスは罪とは何のかかわりもないお方でありましたが、ある時人びとの噂を聞きつけたのでしょうか、ヨハネのもとへとやってきます。13節のところです。そして続く14節のヨハネの言葉です。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。もう腰を抜かさんばかりに驚くのです。ヨハネも主イエスのことを知っていたのでしょうか。ヨハネはザカリアと(詳細は不明ですが)マリアの親類エリザベトの子どもですから、主イエスとは親戚関係と考えられます。そのヨハネは主イエスが救い主であることを知っていたのでしょうか。ヨハネが引きとめたにもかかわらず、15節「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」。

主イエスにどのような意図があったかは計り知れませんが、民衆と一緒にしてほしい、決して権威的で、高みに居られる救い主ではないのです。人びとと同じ目線に立って、人びとと同じ歩みをされるこの主イエスの行為に、神の愛の実現を見ます。

そうして主イエスが洗礼を受けられ、水から上がられると、16節の後半「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」のです。そうすると17節「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。神は主イエスが皆と同じように洗礼をお受けになったことに大きな喜びを示し、祝福されたのです。洗礼の出来事の記事を通して、私たちはまことの神として、またまことの人として人間に仕えようとされる主イエスのお姿に学ぶことが多くあるのではないでしょうか。

さて、私たちは主イエスに従って歩みを起こした者たちです。主イエスに従うものたちの共同体を「教会」と呼ぶのです。私たちもかつて、神に背を向けていた生き方をしていました。そして神はさまざまな方法で、私たちが神と共に生きる生き方に招いてくださいました。そして洗礼によって神中心の生活に入ったのです。言ってみれば私たちも神の子にされたのです。主イエスが教えてくださった「神の国」の住人になることを、洗礼を受けることによって、私たちが「表明」した日、その日が、私たちが洗礼の恵みに与(あずか)った日なのです。

けれども私たちは自分の足りなさをよく自覚しているでしょうし、わがままや自己中心の思いもあります。洗礼を受けたあとも何も生活が変わらないという思いを持っている人もいるでしょう。私たちにはそういう弱さがあることもよく銘記しておく必要があります。神がせっかく主イエスのいう永遠に飲むことができる泉へと私たちを招いてくださったのに、その招きにふさわしい生き方ができないでいる私たちです。しかしどんな時にも神を信頼し続けるだけで、(それは私たちの心の状態によれば難しい時もあるでしょう。)神は皆さん一人ひとりのことを忘れてはいないのです。私たちが洗礼を受けたその日には天において神のもとに私たちの名前が記されているのです。それは神が私たちを愛し続けてくださるしるしであり、私たちが神の子とされている証しでもあります。ヨハネによる福音書1章11節以下にはこのように記されています。

「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。

もう一箇所、ヨハネの手紙Ⅰ3章1節です。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。

神と共に生きて、神に愛されている人は皆、神の子です。そして私たちにとって神は親なのです。

以前のことですがパリのルーヴル美術館を訪ねたおりに。そこでは皆さんもよく知っている「モナ・リザ」や「ミロのヴィーナス」が展示されていて、その周囲には日本人観光客もたくさん見受けられます。もう帰ろうとしていた時に、案内図から見覚えのある絵が目に飛び込んできました。「キリストとアレキサンドリアのメナス」というエジプトのコプト教会のイコンでした。この絵は教派を超えて活動するフランスのテゼ共同体のひとつのシンボルとなっている絵です。キリストが親しくメナスさん(エジプトで殉教したと言われていますが、どういう人物なのかは詳しくは判りません)の肩に手を置いて、何か友達同士仲良く写真に写っているみたいな構図の絵です。ですから「友情のイコン」などと言われます。

私が神学校に入学した時に友人の一人がこのイコンのミニチュアをプレゼントしてくれましていつも飾ってあります。美術館の中ではあまり目立たない奥の片隅にあってそこにはほとんどの人が来るのことない展示室でしたが、何かまばゆい暖かな光を放っているイコンでした。インターネットで「キリストとメナス」と検索するとたくさん画像が出てきますが、私は今日の説教を準備している時に、この同じ目線に立って親しくしてくださる主イエスに、ヨルダン川で「今は止めないでほしい……」と民衆と同じように洗礼を受けた主イエスのお姿が重なってきました。そしてこのイコンをめぐってもうひとつ驚くべきことがありました。このイコンには言葉が刻まれているのですが、そこには何と記されているのかと言えば、

「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。

と主イエスがメナスさんに手を置いて言っているのです。

神が主イエスの洗礼を祝福して、天から聞こえてきた声と同じ声をもって主イエスは人間を祝福されているのです。何という恵み、何という喜びでしょうか。私たちも洗礼の恵みを通してイエス・キリストにしっかりと結ばれているのです。キリストの愛と平和のうちに私たちは憩うことができるのです。

しかし、教会を一歩出れば、私たちは自分たちの弱さを思い知り、それに晒される毎日を送っています。しかし、それでいいんです。パウロは言いました。「弱い時にこそ強い」(IIコリ12・10)と。私たちの教会だって弱い者の集団です。しかしそれは強さであり、祝福です。みんなが本音で生きる教会は強いです。間違ったら素直に悔い改めてやり直せばいいのです。みんながそれぞれの弱いところを理解し合って、手を携えて困難を乗り越えていくところに祝福は必ずあるからです。

主イエスは今日も私たちに言ってくださっています。

「あなたはわたしの愛する子」であると。

私たちはひとりではありません。主イエスが私たちの肩に手を置いてくださっています。主イエスと共に一歩一歩しっかりと確実に歩んでいきましょう。

【洗礼の約束の更新】

今、目をとじて私たちがそれぞれに洗礼を受けた日のことを思い起こしましょう(まだ洗礼をお受けになっておられない方は主イエスが今日私たちにかけてくださった言葉を心に留めて黙想しましょう)。

(祈りましょう)イエス・キリストのいのちの源である神、私たちに洗礼の恵みを通して新しいいのちを与え、私たちがあなたへと向き直す機会を与えてくださいました。あなたの恵みによって私たちがいつまでもイエス・キリストに結ばれていることができますように、お導きください。聖名によって祈ります。アーメン。