「それでも人は立ち上がる」ミカ書7:1〜7 中村吉基

ミカ書7:1-7;マタイによる福音書25:31-46

人間誰しも何をやってもうまくいかない、八方ふさがりの時があります。そういう時にはがむしゃらに行動に出ないことをおすすめします。神から自分を見つめ直す時が与えられたのだとして、自分磨きの時として過ごすことです。のんびりしていればいいのです。

私たちの人生には、人に裏切られたり、病気にかかったり、突然の災害に襲われたりする時があります。そういうときに皆さんが陥ってしまうのは、もはや右にも左にも、前にも後ろにも「突破口」「逃げ道」がないように思ってしまうことです。「どうせ私の苦しみなど、理解してくれる人はいない」と、自分自身で引きこもってしまう人もいます。しかしそれでは、ますます皆さんは、八方ふさがり、そして孤独な状況に追い込まれてしまうのではないでしょうか。

今日の箇所に出てくる預言者ミカは、紀元前8世紀に南ユダ王国で活動した預言者です。ミカ書の1章1節には、彼はエルサレムの南西にあったモレシェトの出身であると記されていますが、ミカについてこれ以外は何も触れられていません。モレシェトは紀元前701年アッシリア侵攻によって破壊もしくは占領されたと考えられています。ですからミカという人は王国が破壊されていくのを目の当たりにした人物です(実際には王国は滅亡せず、エルサレムは破壊を免れました)。

皆さんは、ミカ書と聞くと、クリスマスによく聞くこの聖句をご存知でしょう。

「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」(5:2)。

マタイによる福音書2章6節で、東方から来た占星術の学者がミカの預言の言葉を引用しているのです。

預言者ミカは苦悩していました。神の言葉を聞かない人々の中にあって、「正しい者はいなくなった」と嘆いています。役人や裁判官の中にも「正しい者はいなくなった」。友達の中にも「正しい者はいなくなった」。そして家族の中にさえ「正しい者はいなくなった」と嘆くのです。けれどもミカは続けてこう言います。7節をご覧ください。

「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」

彼は最終的に神を信頼して、すべてを委ねたのです。

私がこの教会に赴任する前に、新宿で15年間、開拓伝道に従事していたことは、これまでにもお話ししたことがありました。その教会が開設される半年ほど前にこんなことがありました。開拓伝道を始めるにあたり、礼拝する場所をかなり以前から探し、あるスタジオが貸してくれることになり、既に契約も終えていました。ところが突然、スタジオの管理会社が倒産するという事態が起きました。半年後に迫った礼拝を行う場所を、また1から探さなければならなくなったのです。その管理会社の残務処理をしていた人たちに、私の窮状を訴えても、まったく我関せずといった具合でした。そのような業者と関係を持つ前に悪いことが明らかになり、金銭的なトラブルがなかったことを良しとして、私は翌日から気持ちをきっぱりと切り替えて、勤めていた会社の業務を終えると、連日、夏の暑い中を礼拝ができる場所を教会に貸してくれる物件がないか、あちこち探し求めて歩き回りました。しかし、何一つ芳しいことはありませんでした。

そしてその時、勤めていた会社の仕事においても、トラブルが起こりました。仕事を進める上で必要となる打合せや会議などが立て続けに次々とキャンセルや延期となってしまい、予定していた期日に仕事を終えることが到底できなくなってしまったのです。さらに悪いことは続くもので、私の仕事関係のすべての書類などが入っていたパソコンがクラッシュしてしまったのです。私はもう、八方ふさがりになりました。

そのようなことが続いた週末に、私は、韓国に行く予定を立てていました。ところがまた、空港に到着するなり、航空会社から、台風が接近してきていて、ソウル行きの飛行機が飛ぶかどうか判らない、と知らされました。さすがに私の気持ちもその時は沈みました。幸い、遅れながらも飛行機が飛べることになり、台風で飛行機が乱高下する中、私は無事ソウルに到着し、翌日は現地の教会の礼拝に行きました。そこで接した神の言葉は、新約聖書のローマの信徒への手紙8章26節「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」というものでした。説教の中で牧師は「聖霊を信頼して、聖霊により頼むことですべてを乗り越えさせていただくことができる」と何度も繰り返し話しておられました。その時、私の苦しみや重荷をすべて自分で抱え込むのではなく、聖霊に委ねようと思ったのでした。そして「この私が仕事を取り仕切るのではない、すべて聖霊が与えてくださる力によって成し遂げられるのだ」という確信を頂いて帰路につきました。不思議なことにもう何も恐れることはありませんでした。心の中でいつも聖霊によってこの坂道を上りきることができるのだと、来る日も来る日も、祈りました。そしてその1か月後には、困難を抱えていた会社の仕事は、不思議なことに当初の予定通りの期日で、すべて終えることができていました。本当に自分だけでは登り切れなかった坂道を上ることができたことに感謝しました。さらに、開拓伝道の物件探しも、私の窮状を知った教会関係者の方が、知り合いの不動産業者を引き合わせてくださり、その方が開拓伝道の主旨に感銘を受けて賛同してくださり、その業者が所有するマンションの一室を、教会として借り上げることが無事できたのです。

私は今ひとりの信仰者として証しします。聖霊は本当に活きて私たちに働いてくださるのです。どんなことでも聖霊が助けてくださいます。私たちには重い苦しみや課題や、あるいは悲しむことやストレスに至るまで、いろいろなことに取り巻かれているでしょう。しかし、ひとりでくよくよと心配することはありません。必ず皆さんの涙は、聖霊がぬぐい去ってくださいます。そして道を切り開いてくださいます。どうぞ聖霊に祈ってください。そして自分の重荷を下ろして、日々の生活を有意義に生きていただきたいと願います。

私たちは何か壁にぶつかったときに「これは神が与えた試練なのか?」はたまた「これは悪の誘惑なのか?」と咄嗟に判断することは、極めて困難です。しばらく時を経てからはじめて、それがどちらであったか判ることもあるでしょう。なぜなら悪は、巧みに私たちの中に入り込み、そして時には、神のような顔をして悪魔が入り込んでくることさえ、あるからです。そのため、その場ですぐに、神か悪魔かを判断をすることは難しいのです。それは、私たちの日々の生活全体が常に「試練」であり、そして常に「誘惑」と向き合っているとも言えるのです。

時折説教で紹介しているアメリカ長老教会の子ども向け信仰問答集『みんなのカテキズム』では、祈りの解説がこのように書かれています。

(祈りとは)最も必要な時において、神さまが私たちを守ってくださるようにと願います。わたしたちを罪に導くあらゆる欲から自由にしてくださるように、そしてわたしたちを脅かす悪の力から守ってくださるようにと神さまに祈るのです。

「試練」というものを神が与えるのであれば、祈りの言葉も、どちらかといえば「わたしたちがたとえ試練にあっても強く、挫けない者としてください! そうして悪の誘惑に打ち勝たせてください」と祈るほうがいいのではないか、と思わないでしょうか。けれども主イエスはそのように祈りなさいとは言われませんでした。

「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」(主の祈り)

主イエスは「強くなりなさい。決してくじけてはなりません。最後まで頑張りなさい!」 とは一言も言っていない。むしろ私たち人間の持つ弱さをよくご存知でした。「あなたたちが苦しいときには、神に助けを求めなさい!」「あなたのいのちを創造された神は、あなたたちが助けを求めて祈ることを待っておられるのです」と主イエスは言います。主イエスは私たちが毎日の生活の中で何が何でも歯を食いしばって耐え忍ぶことを期待してはいないのです。そうではなく何もかも神にゆだねて、神に本当のことを打ち明けて、神の元に帰ってくる私たちを待っておられます。私たちは素直に助けを求めていいのです。

けれども自分の身に降りかかってくる運命を打ち負かすことなどできるのでしょうか。私たち自身の持つ力では一切できません。それが私たちの弱さというものです。そのような自分の弱さを知った上で、しかし、なお、悪の誘惑に引き込まれるのではなく(「誘惑にあわせず」の「あわせず」、「誘惑におちいらせず」の「おちいらせず」という言葉は「引き込む」とも訳されます)、神とともにある生活を願う。破滅ではなく、神の救いに生かされる毎日を願おうとしている人に、主イエスが教えてくださったのが、この祈りなのです。そして神は私たちが倒れそうになっても、敗北感を味わっても、もうこれ以上進めないと思うところまで来てしまっても、神の側から私たちをしっかりと抱きかかえて、助けてくださるのです。

神は私たちが超えられないような試練をお与えになるようなお方ではありません。コリントの信徒への手紙第1の10章13節ではパウロはこのように書いています。新約聖書の312ページをお開きください。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

八方ふさがりの人も必ず突破口があります。コヘレトの言葉3章11節には「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と思える日が必ず来るのです。私たちは神の造られた時を今この時も歩んでいます。私たちの人生はすべてのことが神の時の中で進められています。 

預言者ミカは証ししました。今日の終わりの7節のところです。

しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。

お祈りを捧げます。

不安に陥る夜があります。もうこれ以上先に進むことができないのではないかという朝があります。しかし神さま、あなたは私たち一人ひとりに道を造られ、備えてくださるお方です。私たちは自分一人の力で生きていくことはできません。すべてを委ね、前へ進むことができますように。私たちを助けてくださる聖霊に感謝します。聖霊によってあなたに繋がれ、光の中を歩むことができますように。
教会の一年が終わり、待降節からまた新しい一年が始まります。私どもの教会の歩みも聖霊によって導き、祝してください。この一年の恵みを感謝して、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

「みんなのカテキズム」(著) アメリカ合衆国長老教会 (訳) トマス・ジョン・ヘイスティングス訳 株式会社 一麦出版社