創世記1:1-5 ; コリントの信徒への手紙Ⅱ4:6-12
本日の2つの聖書箇所の内、メインの方は、パウロがコリントの信徒へと宛てた手紙の一部です。ここでは、わたしたち人間には神から宝が託されているのだと宣言されています。パウロは、人間に対して「土の器」という言葉を使っていますが、これはぶつければ欠け、落とせば簡単に割れる脆さ、弱さを象徴するものであり、旧約聖書から続く人間に対するモチーフです。確かに、わたしたちは身体だけでなく、心にもそうした脆さや弱さを抱えながら、今を生かされています。
やっかいなことは、わたしたち、脆い土の器(人間)には、苦難や試練、抑圧、失望が人生には何度も、時には同時にいくつも襲ってくることがあります。パウロは、キリスト教に転向したことでユダヤ教徒からは裏切り者として、キリスト教徒からはスパイだと疑いの目を向けられました。そうかと思えば、関わった教会内の党派争いのリーダーに担ぎ上げられたこともあり、その反対に伝道活動をしたことで捕えられ、獄中生活を経験したこともありました。また、彼の書いた手紙の中には、病気や迫害で伝道活動が頓挫し、心折れるような想いを吐露している箇所がいくつもあります。わたしはパウロも1人の人間だと思っていますから、発言の全てが正しいとは思っていません。彼の時代には当たり前とされることでも、今読むと誤りだと思う箇所がいくつもあります。例えばⅠコリント14章には「婦人たちは、教会では黙っていなさい」とありますが、これを実践したら、ほとんどの教会はほぼ壊滅状態に、また沈黙の教会になってしまうでしょう。
しかし、それでも、わたしがパウロの信仰理解で重要なことだと思うのは、人は苦しみの中でこそ「キリストの福音と出会う」と考えたところです。言葉を変えれば、苦しみの中でこそわたしたちはキリストと出会い、福音の真髄に触れていくというのです。たとえ自分は弱くとも、この存在の中に神が強く関わっておられる、と訴えています。
わたしたちの日常生活には苦難が付きまとい、うまくいかないことも多々あります。しかしパウロの理解では、それらは決して信仰の浅さゆえに起こるものでもなく、また神の罰でもありません。たとえ立派な信仰者であっても、人の弱さや環境によって強いられる苦難を沢山経験します。しかしその苦難の中でこそイエスを知り、託された宝の大きさ、この脆い土の器と共に生きる神を知っていくのです。
今日の箇所でパウロは「闇から光が輝きでよ」という旧約聖書を引用しています。これは創世記の冒頭部分です。闇と混沌を切り裂いた神の言葉「光あれ」という創造の言葉の引用です。創世記のこの箇所の創造物語は、バビロン捕囚時代に編纂されたといわれています。ですから、創造以前の闇と混沌とは、この世界が作られる前の状態を言い表そうとしているというよりも、戦争に負けて遠いバビロニア帝国に連れて行かれた奴隷の状態、混沌と出口のない闇や絶望、苦難を描いているといえるでしょう。
そうした人の絶望に投げかけられた神の光とはどんなものでしょうか。それは、絶望や暴力にさらされ、奴隷として価値を認められない、見えなくされた者たちに触れて、その存在が見えるようにする光、言葉だったと思います。小さくされ、見えなくされた存在が神の言葉と光の下で認められていくのです。そしてその光の下に引き出されたわたしたちは、自らの困難さの中、何もないようなところでも命を表現し、その美しさを生み出していくのです。
竹内敏晴という人が、ご自身の著書『ことばがひらかれるとき』(タイトルの「ひら」は漢字)に、次の様な面白い言葉を書き残しています。「話しかけるということは、こえで相手のからだにふれること、相手とじかに向かいあい、一つになることにほかならない」。面白い表現です。語りかけるということは、相手の存在に触れることで、その中で共に生きている事実を発見する、というのです。これこそ、神の語りかけの具体的イメージではないでしょうか。
「神の語りかけ」と聞くと、人によっては漠然としたイメージになってしまいますが、神がわたしたちに語りかけるのは、わたしの存在に触れて確かめるためです。共に生きている事実に、わたしたちの心を向けさせるためなのです。わたしたちは、そのような言葉を、いつも神から受けながら今を生かされているのです。
神は打ちのめすような闇の中で、「光あれ」という言葉と共にわたしたちに触れ、尊厳を踏みにじられる中で、「わたしにはあなたが見える。あなたは尊い。あなたは一人ではない。この暗さの中であっても、共に道を切り開いていこう」と語るのです。たとえ状況が、パウロが語るような、四方から苦しめられ、打ち倒される経験の中にあったとしても、神の「光あれ」という言葉は、あなたに触れ、存在を回復してくださる。神があなたと共に生きていると分かるように語りかけておられる、と伝えているのです。
さらにいえば、そのような愛の言葉を、今度はわたしたちが扱うように信じられています。そうした言葉を、必要な人に運んでいく大切な役割を託されているのです。