「良い土地に良い種を」マルコ4:1-9,13-20 中村吉基

箴言2:1-9;マルコによる福音書4:1-9,13-20

蒔くことの大切さ

私たちの最大の敵は、自分の中に潜んでいる自己中心性です。自分の欲望のままに、自分の求めるものを追ってばかりいては決して神さまの祝福を受けることはできません。私たちが本当の意味で満たされた、幸せな生活を望むならば、人に「与える」ことを身につけなければいけません。

聖書には「種を蒔く」話がよく出てきます。ただ蒔くだけではなくて、そのあとにある収穫についても教えられています。

4つの土地に蒔かれた種−−−−み言葉をどう受け取るか

今日の箇所を3節から読んでみましょう。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」。1番目の種は道端に落ちた種です。道端に種が落ちると土で種が覆われないばかりか、すぐに鳥のような動物に食べられてしまいます。また道端は人や荷車などに踏み固められて固い土地になっていたでしょう。道端のような人と言うのは、神さまのみ言葉をまったく受け入れない人を指します。もう自分の生き方に自信満々、自分の力やお金に酔ってしまって、あるいはこの世の中の楽しいことばかりに目を奪われてしまって、神さまを信じることは弱い者のすることだ、というくらいにしか考えていません。神さまの言葉に対しても、まったく耳を傾けず、半分馬鹿にしたような態度を取ります。

2番目の種は5節と6節「石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」石だらけで土のないところに落ちた種は神さまの言葉に耳を傾けて、それを信じるのだけれども、自分に苦しいことが起こったり、カッコの悪いことになったり、あるいは神さまを信じることを誰かに反対されたら、さっさとそれを捨てて逃げてしまうような人を指します。世の中には逃げ続ける人がいます。都合が悪くなるとすぐに逃げてしまうのです。ついこの間まで熱心に信じていても、自分の祈りに神さまが答えてくださらなかったとか、勝手に決め付けてさっさとどこかへ行ってしまうのです。

3番目の種は7節「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」。茨の中に落ちた種は一応根が出て、育ち始めますが、こっちに伸びようとすると邪魔が、あっちに伸びようとすると邪魔が入り、結局育つことができません。これは人間の移り気な心を指しています。お金持ちになりたい、いい学校に行って、いい就職をして、有名な偉い人になって・・・・・・というように気がつけば私たち人間の誰もがさまざまな欲望に取り巻かれています。茨の蔓のように複雑にこういう欲望は誰の心の中にも潜んでいます。その欲望が、私たちが人間として成長することを阻んでいます。結局こういう人は自分の内に神さまの言葉を深く育てることができません。

そして4番目の種です。8節です。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。4番目の種は良い土地に落ちたのです。神さまがお話になることを謙虚な心で受け止めて、神さまがこの世界でなさろうとすることに協力をしていく人は驚くばかりの実りが与えられます。私たちはこのような自分自身が良い土地になることは言うまでもなく、自分たちが種を蒔く時に。よく見定めてよい土地に蒔かなければなりません。

苦しみの中でこそ蒔かれる種−−−−人生を変える行動

収穫するためには種を蒔かなければなりません。種を蒔かずに収穫しようとするのは無謀な話です。私たちの周りには大きな畑が広がっています。家庭や職場や地域といった畑です。そこに芽が出て実りをもたらす良い種を蒔かなければなりません。もし農家の人が種を蒔かずに畑だけをぼんやり眺めていたらどうでしょう。一切収穫はありません。私たちも自分のすぐ近くにある畑をぼんやり眺めて放置してしまっていないでしょうか。何もしなければ、何も得られません。それが神さまの造られた世界の原則です。良い作物を収穫したいなら、良い種を蒔かなければなりません。精魂込めて育て、大きな収穫を得るのです。同じように皆さんが幸せになりたいと願っているのなら、幸せは向こうから歩いてやってくることはありません。他人を幸せにするために、幸せの種を蒔かなければなりません。もし時間がほしいならば、他の人に余裕の種を蒔かなければなりません。もし友情がほしいならば、自ら友情を示して、友情の種を蒔くのです。

不幸なことに毎日が退屈で、喜びに満たされることもなく、イライラすることの多い人は、共通した原因があります。種を蒔かない人だと言うことです。自分のことしか見えず、周囲のことはまったく見ようともせず、種を蒔かないならば、そういう人の人生はまったく変わることがありません。今、自分にたいへんなことが起きていて、種を蒔く時間も、ゆとりもないという人がいるかもしれません。しかし、それは逆の視点から言えば、種を蒔くことをしないから、いつまでもたいへんな状態でいるのです。もしも自分の問題を早く解決したいと思うならば、その時は他人の問題解決に力を注ぐことです。

ある男の人がいました。愛する妻を亡くして、教会にかかわりを持ちはじめた人です。妻を亡くしたばかりのころその人は、悲しみに打ちのめされていましたが、やがてくよくよしていても仕方がない、同じように今苦しんでいる人を助けようと思いました。その人は今自分に何ができるのかを一生懸命考え始めました。そして行き着いたのは自分と同じように愛する人を亡くして悲しみに暮れている人を慰めようとしたのです。彼は教会で行なわれる葬儀の場に顔を見せ始めました。けれども亡くなられた方自身や遺族とはほとんど付き合いがありません。しかし彼は悲しんでいる人を勇気づけたい一心で、葬儀があるごとに教会にやってきました。そのうちに牧師は彼の中に、他の人にはない、人を励ますことのできる賜物を見出しました。彼は教会の一スタッフとして働き始め、特に牧会の細かな、教会員の訪問、病人の見舞いなどをする働きをしました。彼はいつまでも自分の悲しみの淵を周り続けてはいませんでした。誰かに助けてもらえるのを待つことをせずに自分から立ち上がったのです。他の人のお世話をし始めると彼の人生は思いもかけない扉が開かれていきました。辛い時期を乗り越えることができ、その後再婚もしました。今でも他人に向けて良い種を蒔き続けておられます。このように私たちは苦しい時にも種を蒔くのです。いえ、苦しい時だからこそ種を蒔かなければなりません。

もしかしたら今、皆さんはトラブルの中にいるかもしれません。仕事のこと、家庭のこと、親との関係、パートナーとの関係、友人との関係、健康的な面で、経済的な面で、さまざまなピンチに立っておられるかもしれません。しかし、そういうときにこそ、自分の問題から一旦目を離しましょう。そして他人を助けることに力を注ぎましょう。落ち込んで、思いつめて、あれやこれやと考えていても、決して何も始まりません。自分の手帳を開いて、今自分が助けることのできる人、いや助けなければいけない人の名を書き出していくといいでしょう。そこに良い種を蒔くのです。その人が平穏で無事に、幸せに生きていく種を蒔くのです。

では私たちはどのような種を蒔くのでしょう。今日の聖書の箇所は「み言葉」(ひいてはキリストご自身)という種を蒔くのです。狭い意味で言えば、福音を伝えて、教会にその人を導くことだと思うかもしれません。それは間違いではありません。しかし、もう少し幅広い意味で、私たちはすでに神さまのみ言葉に養われている者です。私たちのふだんの行動の端々に、み言葉が生かされていなければならないのです。「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」(コリントⅡ2:5)。まさしくこの聖書の言葉の通りです。

み言葉という種を、今日から蒔き始める

もし皆さんが誰かから相談を受けたとします。その人は皆さんがキリスト者であることを知っている人です。いろいろと相談をして、心の癒しを求めているのに、「神さまはきっと助けてくださるでしょう」とだけ言うのでは決してその人は癒されないでしょう。これは種も蒔かないのに、収穫だけを期待した言い方です。詩編37編3節「主に信頼し、善を行え」。この短い聖句は私たちに二つのことを教えてくれます。第一に「神さまを信頼すること」、第二に「善を行うこと」です。もちろん私たちが神さまを信じ、従うことは言うまでもありません。しかしここで止まってしまう人が多いのです。私たちは率先して「善」を行なうのです。

誰かに何かをあげる。あげるもののない人は自分の力でその人のために何かをする、どんなお手伝いでもいいのです。ぜひ今日やってみることです。それが種蒔きです。他人が必要としているものを与えてあげれば、やがて私たちは同じことで祝福されます。自分がひとりぼっちで寂しい人は、他の同じ境遇の人を助けてあげましょう。自分以外の寂しい人を見つけて元気づけ友となりましょう。それは立派な友情という種を蒔くことです。そうすることによってきっと皆さん自身も素晴らしい友人が与えられるはずです。まず他人を大切にすることで、皆さんの人生も喜びで満たされるようになるのです。

実は今日の箇所では、「種」よりも「種蒔き」に焦点が当てられています。種自体のことよりも私たちが「種蒔き」をしていくことに重きが置かれているのでしょう。併せて心に留めて行うものになりましょう。