イザヤ書52:7-14;ヨハネによる福音書1:1-14
今はクリスマスの光を深く味わう時
私たちは先週、クリスマスを祝いました。そして教会の暦では今、降誕節の中を歩んでいます。12月25日から1月6日の公現日まで、私たちはクリスマスの出来事を一度きりの思い出として終わらせるのではなく、その光の意味を深く味わいながら歩むよう招かれています。今日はその降誕節の中で、ヨハネによる福音書の冒頭、いわゆる「ヨハネの序文」と呼ばれる箇所に聴きたいと思います。
ヨハネによる福音書には、マタイやルカのような降誕物語は記されていません。飼い葉桶も、羊飼いも、天使の歌声も描かれない代わりに、
「初めに言があった」
という、静かでありながら力強い言葉で始められています。ヨハネは、イエスがどのように生まれたのかではなく、「この方がいったい誰であるのか」を語ろうとします。降誕節から公現日へと向かうこの時、私たちもまた、イエスというお方の本質に向き合うよう招かれているのです。
さて、私たちはなぜクリスマスを祝うのでしょうか。「イエス・キリストの誕生を祝う日だから」と答えることは容易です。しかし、誕生日を祝う人物は他にもたくさんいます。それにもかかわらず、なぜイエスさまの誕生だけが、二千年の時を超え、また文化や国境を越えて祝われ続けてきたのでしょうか。その理由を、ヨハネ福音書は、はっきりと示します。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
ロゴスとしてのキリスト
ここで言われている「言」、すなわちロゴスとは、イエス・キリストのことです。ヨハネは、イエスさまが単なる偉大な教師や宗教指導者ではないことを最初から明確にします。キリストは、天地創造以前から神と共におられ、神そのものであった存在です。イエスは歴史の途中で偶然に出てきたした人物ではなく、世界の始まりから関わっておられたお方なのです。
福音書の記者は続けます。3節をご覧ください。
「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
この言葉は、私たちの存在そのものがキリストと無関係ではないことを語っています。私たちの命、呼吸、日々の営み、そのすべては、キリストによって与えられ、支えられているのです。教会が「イエスはキリストである」と告白してきたのは、この方こそが神の御心を完全に現し、世界の根源に関わる救い主であると信じてきたからでした。
命としての光――闇の中で輝くまことの光
ヨハネはさらにこう続けます。
4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
キリストは命そのものであり、その命は光として人間を照らします。しかし、その光は、すべてが整い、明るい場所にだけ注がれる光ではありません。「光は暗闇の中で輝いている」(5節)とヨハネは言います。
考えてみれば私たちの人生には、思いがけない「闇」が訪れます。病、喪失、不安、孤独、社会の混迷。できることなら避けたい「闇」ですが、私たちはそれを完全に避けて生きることは叶いません。けれども、ヨハネが語る福音は、闇が消えるという約束ではなく、5節にあるように「闇はこの光を阻止できなかった」(小林稔訳)、(「暗闇は光を理解しなかった」聖書新共同訳)という希望の宣言です。どれほど深い闇の中にあっても、キリストの光は失われることがありません。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(9節)
この光は、特別な人だけのものではありません。強い人、正しい人、成功している人だけを照らす光ではなく、迷い、傷つき、立ち止まっている人をも照らす光、今どうしてよいのかわからない人をも導く光です。先週の礼拝ではマタイによる福音書2章から、東方の学者たちが幼子イエスさまを拝みにきたとお話ししましたが、ヨハネも同じことを証しします。この光がユダヤ人だけでなく、異邦人にも、つまり世界のすべての人に現されたという事実です。
神が人となられた出来事
そして、今日の箇所の中で、ヨハネ福音書の頂点とも言ってよい言葉が語られます。14節、
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
神の御子は、「肉」となりました。「肉」というのは私たちと同じ神が人間となって顕(あらわ)れたということです。しかもそれは単に人間の姿を取ったということではありません。私たちと同じ弱さ、限界、苦しみ、喜びを引き受ける存在として、この世界に来られたということです。疲れ、悩み、傷つき、喜ぶ――そのすべての現実の中に、キリストは共におられます。神は、遠くから人間を見つめる存在ではなく、私たちのただ中に住まわれる神となられたのです。教会はこの出来事を「受肉」と呼んできました。
なぜ神は受肉されたのでしょうか。それは、私たち人間を愛し、罪と死の現実の中にある私たちを救うためでした。神は、私たちを救うために、私たちと同じ場所に立ち、同じ人生を歩み、ついには十字架の死をも引き受けられたのです。
神の子として生きる 降誕節から公現日へ
ヨハネは最後に、私たち自身に向けて語ります。12節の後半からです。
「その名を信じる人々には、神の子となる資格が与えられた。」
キリストの誕生は、単なる出来事ではありません。それは、私たち一人ひとりが神の子として生きる道が開かれたという宣言です。世界に生きるすべての人が、神に愛され、尊厳を与えられた存在である――これこそが、降誕節から公現日にかけて語られる福音です。
暗闇のように思える時代にあっても、キリストの光はすでに現されています。この光に照らされながら、私たちは神の子として、この世界を歩むよう招かれています。降誕節のこの時、あらためてイエスをキリストとして告白し、この光と共に歩む者でありたいと願います。
降誕節から公現日へと向かうこの歩みの中で、私たちはもう一度問われています。
私たちは、このイエスを、一体誰として受け取っているのでしょうか?
ヨハネ福音書は、イエスを「救い主である」と感情的に語ることをしませんね。その代わりに、「初めに言があった」「言は神であった」「言は肉となった」と、静かでありながら揺るぎない言葉で淡々としかし大胆に告げていきます。そこには、教会がどの時代においても失ってはならない信仰の基準があります。イエスは単なる模範的人間でも、偉大な宗教指導者でもなく、神ご自身が私たちのもとに来られた方なのです。
キリストの公現が示すのは、この事実が、特定の人々の内輪の理解にとどまらず、世界に向かって現された、ということです。先週も申しましたように東方の博士たちは、ユダヤの国の外からやって来た外国人でした。彼らは律法を持たず、預言者の言葉を直接知らなかった人々です。それでも彼らは、闇の中に輝く星の光に導かれて、幼子イエスのもとにたどり着きました。
キリストの光は、境界線を越えて現される光なのです。
今、日本のキリスト教界では最近出された「キリスト教シオニズム」あるいは「福音派」の書物が大変よく読まれています。私もこの2冊を読み比べるようにして向き合っていますが、ここに出てくるような信仰者の中にあるのは、「自分たちだけが救われている」というような優越感ともいうべき信仰のありかたです。しかし、キリストの光は、「教会に来ている自分は、来ていない人より上だ」と思わせるような光ではありませんし、キリストの光は、「自分は正しい」「あの人より信仰がある」と思わせるための光ではありません。ヨハネが語る「光」はむしろ、自分が闇の中にいることに気づいた者を照らす光です。自分の力ではどうにもならない現実を抱えたとき、人は初めて、真の光を必要とします。キリストの光は、成功や達成の頂点で輝く光ではなく、弱さのただ中でこそ、確かに輝く光です。この1年が恵みのうちに終わろうとしています。私たちは新しい年にキリストの光を掲げて歩み始めましょう。