イザヤ書49:14-16;マルコによる福音書14:3-9
私は普段、キリスト教会の牧師をしているのですが、放送大学で「死生学」の授業を行っています。「死生学」とは、文字通り、生と死を扱う学問です。死をみつめる授業には看護師や高齢者介護の現場で働く方、ご自身が病気を得ておられる場合や家族の看取りをしておられる方、大切な人を亡くされた方々も多く参加されます。私がお話をすると同時に、参加者にもご自身の考えや経験を話していただき、双方向の授業となるように、行っています。
死を前にして、人は体や精神状態、社会的な状態だけではなくて、「私が生きてきたことは意味があったのか」「なぜ、いま、自分が死ななければならないのか」など、魂の問題にいきあたります。けれども、今の日本では、そうした問いを考えたり、共に語り合う場はほとんどありません。
教会では毎週、神さまからいただいたいのちを感謝して、それぞれの場に派遣されます。そこで様々な困難や時にはつまずきやストレスを抱えながら、神様からのまなざしを忘れ、時には人との関わりが断たれたり、自分を見失う。そのような中で、礼拝において、神の前にある自分、隣人との関わりを結びなおされる。聖書を通して、自分とは何か、何を大切に生きて行くのかというような、今すぐには答えが出ないことを真正面から取り組んでいる、そういう場です。そこで大切にされているのは、私が、「今、ここにいる」ということです。そこに、価値があるということだと思います。
今日は午後、代々木上原教会のカンファレンスが予定されています。その開会礼拝の説教として、マルコによる福音書から、「生と死」をみつめる上で主イエスが語られたことに耳を傾けたいと願っています。
イエスの受難の道行きが始まっています。民衆の救い主を求める声と同時進行で祭司長たち、律法学者たちがイエスを殺害しようと計略をめぐらしています。緊張感が日に日に高まっていきます。
イエスはエルサレムの指導者たちとのやり取りの後、ベタニアに戻って重い皮膚病の人シモンの家で食卓を共にしています。一人の女性が食事をしていたイエスのところへやってきました。彼女は招かれざる者であり、そこに入っていったこと自体が常識はずれなことでした。
彼女は「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺」を持ってきて、それを壊して香油をイエスの頭に注ぎかけました。インド産のナルドという植物から抽出した油は、普段使うオリーブ油とは異なる、高価なものでした。その香油は髪に香りをつけたり(雅歌1章12節)、死者を葬るために用いられました。愛と死を思い起こさせる香りです。
イスラエルでは、預言者が王の頭に油を注ぎました。「油注がれた者」はヘブライ語で「メシア」、ギリシア語で「キリスト」です。受難へと進みゆくイエスに対して、この女性はそれが「救い主」としての歩みであることを示しました。
しかし、そこにいた何人かが憤慨して言いました。「何故、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。300デナリオンは当時の労働者のほぼ一年分の賃金です。そして、彼女を厳しくとがめたのです。もっと有効に使う方法があるではないか、もったいないと。もっともな理屈です。
ここには二つの価値観によるものの見方があります。そしてその価値観によって、私たちは自分のことを評価しているのだと思うのです。
二つの価値観の一つはある行為、その人のもっているものがどの位の業績を生むのか、生産性という物の見方です。その人は何ができるのか、どの位の事ができるのかによって評価される。
私たちにはもう一つの価値があります。それは存在価値ということができます。自分が生きていて、今ここにいるということ、そのものが本当に大切なことだという感覚。それは普段私たちが生活している中では見えにくい。けれども、私たちが病気や愛する人との別れ、死ということに向き合う時に、自分の人生の中で大切にしなければならないことは何かということに気づくことがあります。
聖書はそれを「神の愛」と言っています。あなたがそこにいるということ、そのものが本当に大切なことなのだ。神は私たち一人一人をかけがえのない、独自なものとしていのちと賜物を与えられている。
それを伝えているのが「神のまなざし」です。「目に見えないけれど、大切なものを見ようとするまなざし」「愛と思いやりに開かれたまなざし」です。
主イエスが伝えようとしているのは、その「神のまなざし」です。
イエスと香油を注いだ女性との間には相互的な関係があります。イエスは「葬りの備えをしてくれた」と語られました。イエス自身が死へ向かっている、苦しみを受ける歩みの中で、この女性が寄り添ってくれたことを言い表しているのです。油を注ぐ行為には、癒しの意味があります。弟子たちは「油を塗って多くの病人をいやした」(マルコによる福音書6章13節)のです。女性がイエスの頭に手を置いて油を注いだとき、彼女の慰めの思いも注がれたでしょう。
イエスはこの女性に香油を注がれて、苦しみと死を前にして、自らも「ケアされる存在」であることを自認しています。それから、イエスは一人ひとりへ神の愛を伝えるために、十字架への道を歩みます。イエスは香油を注いだ女性のことを「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と宣言されました。イエスのこの言葉は、歴史を創るのは一人一人が神の愛に応えようとして決断し、行動することであり、それが記憶されるのだと伝えています。
私たちも「生と死」をみつめる時、主イエスが伝えられた「神のまなざし」の中にあります。私たちは礼拝において、毎週、その「神のまなざし」の前に立ち帰り、その愛を受け取って歩みます。その営みを通して、神と隣人と、そして自分自身との関りを結び直しているのです。主イエスは十字架の死と復活によって、私たちの神と隣人との愛は、死によっても失われることはないと示されました。
近しい方々の死を通して、その信仰を受け取った方々もおられるでしょう。午後のカンファレンスの時間に、具体的な分かち合いの時をもつことができましたら幸いです。
「今、ここ」という時、主が共におられて、私たちを招き、神と隣人と共に歩む者へ召してくださっていることを感謝して受け止めて、歩み始めたいと願います。