「主に導かれて」出6:6-7 大島泰江

出エジプト記6:6-7;マルコによる福音書13:10-13

 ご紹介いただきました日本聖書神学校の2年生、大島泰江です。日ごろは神学校を覚えてご支援を感謝します。また本日はこのように神学生に奨励の機会を与えてくださりありがとうございます。本日はこの代々木上原教会の皆さんとご一緒に神さまを礼拝できますことを心から感謝しています。どうぞよろしくお願い致します。

1.モーセの救いの約束について

本日の聖書箇所は日本基督教団の聖書日課・日毎の糧から選ばせて頂きました、旧約聖書、出エジプト記の6章2節から13節(本日はその中心となる6,7節を読みました)テーマは「救いの約束(モーセ)」となっています。出エジプト記では、エジプトで奴隷とされ、苦しめられているイスラエルの民を救いだすために、主なる神はモーセを選び、召し、派遣されたこと、モーセがどのようにしてイスラエルの民の指導者となり、エジプトからの脱出の導き手となるのかが語られています。特に出エジプト記6章には、苦しみの中にあるイスラエルの民に向けて、神が救いの約束を新たに語られる場面が描かれています。6章1節で神はモーセに「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」と言います。

「わたしの強い手」とはイスラエルの民をエジプトの束縛から解放し、ファラオを動かす神の圧倒的な力と権能を指し、イスラエルの神が天地の創造主であり、いかなる神にも勝る偉大な存在であることを示しています。神はご自身の計画を成就するために忍耐強く時を待つお方でもあります。これは、人間の力ではなく、神ご自身が介入して計画を成就されることを示しています。「強い手」は、ファラオが自らの意思に反してイスラエルの民を解放さざるを得なくなるほどの、神の強制力を意味しているのでしょう。最終的には、ファラオ自身が民を追い出したいと願う状況にまで至るとされています。この出来事において、人間に求められるのは、ただ神に従うことです。神はモーセが落胆している状況でも、ご自身の計画を必ず成し遂げると励ましました。

2.弱さのただ中に働かれる神

救いの約束のポイントは「困難な中での救いの証」でありましょう。モーセは解放、つまり救いのメッセージを伝えるために召命を受けます。モーセは自分の意思でイスラエルの民の指導者となり、エジプトからの脱出の導き手になったのではありません。ですからファラオにイスラエルの民を解放するようにいうなどとは、仲間のイスラエルが聞かぬのに、ファラオが聞き入れるはずがないと弱気です。モーセは「私は何者なのでしょうか」「私は口が重い」「唇に割礼のないわたし」と何度もしり込みします。12節にある、唇に割礼のない者とは、割礼はユダヤ人にとって特別な意味を持つ儀式であり、神との契約のしるしとされていましたから、耳や心にも「割礼」という言葉が比ゆ的に使われることがあり、ここでは言葉が滑らかに出ない、口下手である、弁が立たないとかいった意味で、モーセは吃音ではなかったかという説もあるようです。自分の弱さや過去を思う時、神の使命に応えるのは困難だと感じるのは人であれば当然でしょう。モーセも過去にエジプトで、苦役に苦しむイスラエル人を鞭打つエジプト人から救おうとして、自分の力でなんとかしようとして殺人を犯してしまいます。そんな苦い経験もモーセにはありましたから、神からの召しに応じることは難しかったことでしょう。しかし神は、そのような弱さのただ中でこそ働かれる方なのです。人の力ではなく、神の恵みによってこそ救いは成就します。モーセの召命は、神が苦しむ者に心を寄せ、耐え忍ぶ人々に希望を与えようとされる神の御心の現れです。

3.各々の召命

このようにモーセばかりでなく、わたしたちをも解放し、贖(あがな)ってくださる神さま、その神さまの「わたしはあなたと共にいる」という言葉が、自分事として響いてくるような経験を、ここにおられる皆さん、おひとりお一人も感じたことがおありなのではないかと思います。

 私の場合はといえば、皆さんのお手元にあります自己紹介文に記しました通り、キリスト者であった両親の信仰、教会から距離を置いて成長した私が、ほんとうにキリスト教と出会ったのは、両親の癌での闘病と死、葬儀を通してでした。両親は母教会である千葉教会の両牧師先生や教会員の方々のお祈りに感謝し、訪問に慰められていました。共に癌の痛みを負いましたが、死への姿勢は穏やかでした。私は両親の姿を通して「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と聖書(ヨハネ11:25)の語る、死を越えた希望、永遠の命を両親は信じ、神さまにすべてを委ねていたのだと感じることができました。そして時を経て、私も1999年のペンテコステに日本基督教団千葉教会で洗礼を受け、教会の枝とさせていただいたのでした。その後、2002年からは東京の山谷地域に開設された訪問看護ステーションで働くこととなります。この頃、山谷地域は寄せ場と言って日雇い労働者の多く集まる街から、高齢、貧困、独居、障害や病気を抱える人が多く暮らす福祉の街と変化していました。その街を訪問看護師として巡る日々の中で、私は様々な方の悲嘆を聴いてきました。その大変困難な状況を聴き、「神さま、どうして」と問いつつ訪問看護を提供してきました。さらに2011年の東日本大震災後の気仙沼支援の際にも「神さま、どうして」また「神さまはどこにおられるのか」と問うていました。

 この答えを見つけるべく私は、2011年当時、ルーテル学院大学で開催されていたグリーフケアの講座を受講することとなり、また2014年からは上智大学グリーフケア研究所で学びます。そこで悲嘆が人生に大きな影響を与えることや本当の意味で人と出会うことについて知ります。その学びを現場で活かすうちに、2020年のコロナによる危機に遭遇するのです。私はコロナの緊急事態宣言時、東京都民でありましたので、県をまたいで、母教会である千葉教会の礼拝に出ることは叶わなくなりました。また訪問看護師として、日常的にコロナ陽性者と接していた私は、自粛生活を送らざるを得なくなりました。教会に通えなくなってみて、改めて私は、日曜日の礼拝時に、過ぎたひと巡りを振り返り、懸命に取り組んだつもりだけれども足りなかったこと、本当にあれが正解だったのかと悩むことなどを神さまに告白し、許しを請い、新たな1週間への糧を頂き、毎週、新たにされて、現場へと押し出されていたのだと、礼拝での恵みを実感したことでした。礼拝に出席できないこと、これは私にとってはまさに大きな苦難でした。

しかし、そんな窮地に日本聖書神学校の聴講生として、学ぶ道が開かれたのです。コロナ禍、様々な倫理的問題が浮かび上がり、悩むことも多かったので、私は神学校で開講していたキリスト教倫理を学びたいと望み、聴講生として神学校の門をたたいたのでした。神学校での学びを経て、私は不条理な問いへの答えは、状況を越えたもうひとつ向こう側にある、究極的な存在、私であれば神様が、その状況を通して何を語りかけてくださるかということに耳を傾ける、そして耳を傾ける時に一緒に耳を傾け、共に祈ってくれる他者がいるかどうかも大切なのではないかと考えるようになりました。そして昨年の4月からは、神学校の正科生としての歩みを始めました。私自身はすでに65歳を超え、神学校での授業についていく、特に語学の習得などはなかなか厳しい現実があります。「まいった」と弱音を吐くこともあります。そんな時、神さまにすべてを委ねて、自身のできることを精一杯務めるしかない、という境地に立たされますと、不思議に道が開かれていく場面に遭遇してきました。神学生としての働きながら学ぶ生活を通して、私は苦難にあってもつねに私に寄り添い、導いてくださる聖霊の促しをより感じられるようになりました。聖霊は私に語るべき言葉を与え、励ましてくださいます。ほんとうにこのことは主の招き、主の導きとしか言いようがありません。

4,最期まで耐え忍ぶものは救われる

さて本日の共に読まれる新約聖書の箇所は、マルコ福音書の13章5節から13節があげられていました。この13章は小黙示録とも呼ばれ、特にこの個所は終末の徴について語っています。ここには忍耐という意味においての偉大な聖書の教理がみられます。それは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」というものです。「救われる」というのは単に「肉体的な死から救い出されるであろう」という意味ではあり得ません。それは12節に既にキリストのゆえに苦しんで「死ぬ」可能性があると警告されているからです。ここで約束された救いは、墓をも超えた、もっと深い何かを意味しているに違いありません。モーセの救いの約束も、モーセがどんなときにも神と対話をしつつ、神の導きに従い歩むことによって、神の計画は成就されたのではないでしょうか。もちろんそれを成就してくださるのは、私たちの神でありますが、私たちは聖霊の働きを祈り求めつつ、自らを通して生ける神が働いてくださるように祈り求めることが必要でしょう。私たちを通して、生ける主が働いて、みことばが伝えられてゆくのです。信仰生活とは、信仰の道には戸惑いもありますが、神が共にいてくださると信じるとき、わたしたちは希望を持つことができるのです。モーセのように、主に遣わされ、恵みの約束に活かされる者として、主の導きに従いながら共に歩んでまいりましょう。