創世記4:1-16;ヨハネの手紙I3:11-18
試される私たちの信仰
祈りが聞かれれば、神さまを信じるけれども、祈りが聞かれなければ、信じない。このような信仰は果たして正しい信仰と言えるのでしょうか。今日はこのことを創世記から学んでみたいと思うのです。
アダムとエバの間に二人の息子たちが与えられました。カインとアベルの兄弟です。やがて兄のカインは農耕に、弟のアベルは牧畜にそれぞれ従事しました。あるとき、二人は自分たちが精魂込めて作り上げてきた実りを、感謝して神さまに献げました。いわゆる収穫感謝の時でした。3節によるとカインは「土の実り」と記されていますから、きっと畑でとれた野菜や果物、穀物などを献げたのでしょう。
またアベルは4節に「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」とあります。自分が育てた羊の中で最上級の羊を神さまに献げたのです。神さまはカインの献げ物には目を留められず、アベルの献げた物にだけ目を留められたのです。私は高校生の時、教会の高校生会でこの箇所をみんなと一緒に読みましたときに、とても不思議な思いがしたことを今でも憶えています。そして今も、毎年高校3年生のクラスでこの箇所からさまざまに考え、意見を出し合いそれを分かち合います。
受け入れられた者と退けられた者
なぜ神さまは不公平なのか、神さまはアベルにだけ、「えこひいき」をしているのではないか、と思ったものです。いろいろな理由を高校生たちと話しているときに、ある高校生が、「神さまは肉が好きで、野菜が嫌いだったのではないか」と言って笑わせてくれましたが、なにゆえ、神さまがアベルの献げた物に目を留め、カインのそれを退けたのか、その理由は今日の箇所には記されていないのです。ただ事実のみがたんたんと書かれているのです。しかし、この箇所を読んだ高校生会ではそれは2人の兄弟がそれぞれを育てる過程で、アベルはひたむきに仕事に従事し、カインには不正があったのではないか、と推測をしました。なるほど、この理解は我ながらそれなりに力を持つものであると、私は今も思っています。
でもよくよく読んでみるとこう書かれています。
「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた」(4)。たくさんいた羊の中からよい物を選りすぐって持ってきたのです。
アベルとカインの場合、聖書では結果だけが告げられているだけです。そのプロセスというものは一切記されていないのです。神さまがお取りになった結果にカインはたいへんな悔しさを覚えました。5節の後半に「カインは激しく怒って顔を伏せた」とあるとおりです。カインの心の内側から怒りが止め処もなく沸々と沸きあがってきたのです。顔を伏せて神さまのほうを見ないようにもしたのです。私たちにもこういうことがあります。何もカインのように激しい動作を伴わなくても、私たちに「予想外のこと」が起きたときに、それはしばしば良いことではなく、悪いことが起きたときに神さまの存在を遠くに追いやってしまってはいないでしょうか。このメッセージの冒頭に「祈りが聞かれれば、神さまを信じ、祈りが聞かれなければ、神さまを信じない。このような信仰は果たして正しい信仰でしょうか」と申しました。私たちの信仰はこんなに薄っぺらい、簡単に崩れてしまうような信仰なのでしょうか。
カインだって「いちばん善いものを神さまにお献げしたはずだったのに・・・・・・」という悔しい思いがあったのでしょう。きっと神さまは自分の献げ物をほめてくださるに違いないという確信があったのかもしれません。それはしかし、カインの素朴な思いであるのと同時に、神さまを自分のために利用しようとしているのです。
私たちも普段「神さまはきっと・・・・・・してくださるに違いない」という希望を、確信をもって歩んでいます。そのことが私たちの生きる力にもなっています。けれどもそれを自分の利益のために使っていないでしょうか。「○○のことを精一杯やったのだから神さまは成功させてくださるだろう」とか「あの人よりも自分のほうが真面目に物事に取り組んできた。だから神さまは私に幸せをくださって当然だろう」などなど神さまを自分本位にしてしまう危険です。これでは神さまは「幸福生産マシーン」まるでロボットです。自分の思い通りになれば、神さまを信じるけれども、そうでなければ必要ない、とするのです。
そもそも、カインの献げ物もアベルの献げ物も神さまが与えてくださったものです。そして神さまはカインだけの神さまではありません。アベルにも、そしてこの後、どんどん人口が増えていきますが、神さまに造られたすべての人の、すべてのものの神さまであるのです。今日の箇所で大切なひとつのキーワードは「パートナーシップ」。すなわち私たちは手に手を取り合って助け合って生きる者であるということです。自己中心になるのではなく、他の人のことも思いやって生きる生き方こそが神さまがもっともお喜びになることですし、神さまとすべてのいのちを与えられたものが調和して、この世界を美しく彩っていく道筋に他なりません。
神を利用する信仰から、神と共に歩む信仰へ
しかし、カインには残念ながらそのような気持ちのひとかけらもありませんでした。彼はアベルを野に連れ出して殺してしまうのです。この世界で最初の殺人事件は妬みによるものでした。しかもそれは本来仲が良いはずの兄弟間で起こってしまったのです。9節のところで神さまはカインにこのように訊ねています。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
カインが知らないわけはありません。これは嘘でした。責任逃れでした。私たちは先週、アダムの嘘についても学びましたが、人が神さまに対して偽証するのです。あの十戒の第9の戒めに「(あなたは)偽証してはならない」と定められていますが、嘘をつくということがどれだけ人と人との関係性を壊すことでしょうか。簡単に嘘をつく人がいます。しかしそれはいつか神さまによって明るみに出されるのです。このとき、カインは神さまに「しらをきる」というか、何事もなかったかのように、偽証します。しかも「わたしは弟の番人でしょうか」と神さまに刃向かうようなことさえ言います。カインの心はますます神さまから遠ざかっていく一方でした。カインは遂に故郷から追放されてしまうのでした。
私たちは、誰かに「私は○○さんの番人でしょうか?」などと言うことはありません。ちょっと不自然な感じもします。しかし、神さまは人と人とが、互いに番人(ヘルパー)のような関係であることを望んでおられます。それだけ人間は弱いのです。ですからお互いに注意を向け合う関係であることを神さまは願われているのです。
生き続けなさいーー神に守られ、隣る人として生きる
けれども神さまはカインを見捨ててしまわれたわけではありませんでした。カインは14節の後半で「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と自分の罪が自分に跳ね返ってくることに怯えていました。そこで神さまは15節、
「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
神さまがカインにつけたしるしは神さまが全力でカインを守ってくださる「しるし」でありました。神さまにはカインを殺してしまうこともお出来になったはずです。しかし、そうされずにカインの残された人生を精一杯「生きなさい」と言われています。カインは自分が殺されてしまっても仕方のない人間だと怯え、落胆していたとき、神さまはカインに生きることを命じられたのです。一生の間、カインは弟アベルを殺した罪を背負って生きて行ったことでしょう。しかし、神さまはカインに「どんなに落胆することがあっても、生き続けなさい、生き抜きなさい」とカインを励ましてくださっていたのです。カインの残りの人生は今日の箇所の次のところにあるのですが、彼も結婚をして、父親となります。カインが生き続けたからこそ、そのいのちはエノクという息子に受け継がれていきました。彼の人生はとても辛い日々であったことでしょう。しかし、カインの中に生きている神さまの「いのち」を神さまは祝福され、カインを愛してくださったのです。
「光の子どもの家」を立ち上げられたSさんは、施設職員に採用する条件を「ただ居続けることができる人」だと言っています。子どもたちに絶対の信頼の対象である「隣る人」(となるひと)をつくれば子どもは安心して生きていけると言います。では仮に私たちが誰かのそばに居続けることを通して「隣る人」になれるかどうか、それは難しい問題です。しかし、私たちの「隣る人」はイエス・キリストであり、イエスさまが指し示した神さまです。私たちは素晴らしい模範を仰ぎつつ、私たちも誰かの「隣る人」になることができるのです。
今、自らいのちを絶つ人々がこの日本にも大勢います。日本ではここ3年ほど年間2万人を超えています。私たちはどれだけ大きな罪を犯しても、大きな悩みがあっても、変わることのない自分であっても、そのままの自分で「生き続けなさい」と神さまは望んでおられます。世界の人が誰一人、自分のことを認めなくても、無視したとしても、神さまは皆さん一人ひとりを愛しておられます。そのことに私たちが、気がつくときにいのちの尊さを噛みしめながら生きること、そして他者を愛することが私たちのうちに可能になってくるのです。