「神の喜びのために」創世記2:1-4前半 中村吉基

創世記2:1-4前半;エフェソの信徒への手紙1:4-6

毎週金曜日のお昼前後になると代々木上原駅の周辺は異国情緒豊かに、賑やかになります。東京ジャーミイにムスリムの方々が礼拝に訪れるからです。ムスリムの方々が金曜日に礼拝するのは、聖書にあるように神が天地を創造されて、その最後に「人間」をお造りになったことを重んじておられるからです。

天地創造と第七の日

天地創造の物語は創世記第1章に描かれます。しかし、先ほどともに聴きました2章1節は「天地万物は完成された」と告げます。一章の終わりに書くのではなく、2章の冒頭に記されるのは私たちに神の業の偉大さを再度告げるかのようです。神は世界のすべてのものをお造りになりました。世界の第1日目から6日目さまざまな「いのち」だけではなく、その「いのち」が生かされるための環境が整えられました。しかし、これだけで世界が完成したのではありませんでした。2節にこうあります。

第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

天地創造の記事を読むときに、私たちは神がこの世界のあらゆるものをお造りになったことに目を留めます。しかし聖書をよく読むと神がすべてのものをお造りになったあとに「休まれた」ことをきちんと描いています。そして神が休まれることをもってその仕事が完成されたと、今日の箇所は私たちに教えるのです。今日の箇所はとても短いところです。しかし、繰り返されている言葉があります。「第7の日」。3回も繰り返されているのです。創世記のこの物語を記した人々が「第7の日」を強調することによってこの日が神にとって、この世界にとって、そしてそこに生きる私たちにとっても大切な一日であることを窺い知ることが出来るのです。今までの6日間は、第7日目に向けて営まれていたとも言えるでしょう。第7日目、天地創造の総仕上げの日に神が安息なさったことは、人間にも同じように第7の日に安息するようにこの日を備えられたのです。こうして天地創造のわざは「完成」するのです。

神も休まれる

皆さんは神が休むなんて、不思議に思われるでしょうか。神は24時間、1分1秒たりとも休まずに働いてくださるお方だと思い描いているでしょうか。もちろん仕事をすることは尊いことです。しかし同時に休むことも尊い。神は働き、休まれるのです。労働も神聖だけれども、安息することも神聖なことだと聖書は教えるのです。

昔、ヘブライ人の先祖たちが、エジプトで奴隷とされていた時、彼らは休みなしに働かされました。労働に次ぐ労働、死ぬまで働けと強制労働を強いられていました。私たちもそうですが、休みなしに働くということは、肉体の疲れを覚えるだけでなく、心も疲れてきます。「がんばろう」と思う気力がなくなります。うまく物事が考えられません。次第に希望も失ってきます。どこかでその連鎖を断ち切らなければなりません。モーセによって導かれてエジプト脱出を果たしたヘブライ人の先祖たちは神が約束してくださった地に向かって荒野を旅して行きました。そこで安息日が与えられたのです。神は人々にマナを降らせ養ってくださいましたが、いつも6日目には2日分のマナを降らせて、翌日は安息日を守るように教えられたのです。エジプトの束縛、強制労働から解放されたイスラエルの人々にとって、どんなに嬉しい休みの日であったでしょう。しかし、安息日は6日間の仕事についてくるプレゼントではないのです。人間のすべての営みの目的は、安息日に働くことをやめて、神の愛、神の恵みの豊かさを感じながら、感謝をする日なのです。神は普段から私たちを養ってくださるだけではなく、それ以上に大きなお恵みをくださいます。その希望を私たちは、聖書の言葉から、あるいは礼拝の中で、祈りのうちに知ることが出来るのです。安息日は神に心を向ける日です。

安息日の意義と再創造

「レクリエーション」という言葉をご存知だと思います。「Re:creation」なんですね。私たちが再創造される日、新たに造られる日なんです。このイスラエルの人々が神からいただいた十戒(出20章、申5章)の中に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とありますが。私たちが安息日を守り、神に思いを馳せる。神に自分の疲れを素直に告白する。私たちのいのちの造り主である神を礼拝し、そこからまた新たな力をいただくことを生活の第一のことにすべきことを言っていますが、神が働くのとともに休まれることを重要視されたことがここに表れてきています。

以前にこのような修道院での話を聞いたことがあります。修道院の中では、ブラザー、あるいはシスター方が共同で生活をしていますが、たとえば、洗濯係、炊事係、そこは食物を生産して売っている修道院でしたから、牛を搾乳する係など、いろいろな役割があります。しかし、全員が3か月ほどでその仕事から違う仕事に配置転換するのだそうです。それはなぜなのかと言えば、「神よりその仕事を愛さないため」だというのです。私たちそれぞれの「天職」というのはあるでしょう。しかし、私たちは神に向けて造られた存在として、神を忘れていいというわけではありません。次第に仕事にノッてくると、あたかもその仕事は自分でなければできない、他の人には一切できないという「錯覚」に陥ります。「天狗になる」というか、そういうなかで、人を見下したり、すべては自分の手中にあると思い込んでしまう。もうこうなったらおしまいです。だからそこで休むことによって鋭気を養い、一歩立ち止まって考えることをする。神に祈ってみる。これからの人生を展望するなど私たちにとって、休むことが不可欠のことであると神は教えてくださっているのです。

休息をとると私たちは生き生きしてくるのを経験したことがあるでしょう。神は私たちが疲れ果て、力を失っている姿よりも生き生きとして輝いている姿でいることをお望みであり、私たちがそうなるように力を注いでくださるお方です。なぜなら私たちは神の喜びのために創造されたからなのです。

神の喜びとしての人間

私たちは偶然にこの世に生まれたわけではないのです。私たちが生まれた日、親をはじめ皆さんの周囲の人は皆さんの誕生を喜んだことでしょう。しかし、神もまた皆さんの誕生をあたたかく大きな手を広げてこの世界に歓迎してくださっていたのです。そして皆さんが、神が造られた世界の一員となったことを喜んでくださいました。それはヘブライ人たちがエジプトの奴隷とされていたように、神は皆さんに何かを強いようとしてお喜びになったわけではなく、皆さんの誕生そのものを喜ばれました。神の許可なくしては私たちがこの世に存在することはありません。先週のメッセージでも申しましたが、神と私たちは密接です。私たちは神の作品です。「すなわち神は人を造ることを心の底から切望され、人をつくることで満足をされ、また人は神なくしては生きていくことが出来ないという深いパートナーシップ」で結ばれているとも申しましたが、私たちが生き生きと輝いていることは神の喜びでもあるのです。たとえば私たちが何か手塩にかけてしてきたことが裏目に出るとか、育ててきた人が良からぬ方向に行ってしまったり、大切な人が元気をなくしてしまったり、何か浮かない顔をしているだけで、私たちの心も曇ることでしょう。それと同じです。神が私たちも喜んでいる状態であることを望んでおられます。

神を喜ばせるような生き方をすることは、私たちの人生の最大の目的です。神は分け隔てなくあらゆる人にこのことをお望みです。私たちは力を失う時、自分はちっぽけな存在であることや、さしてこの世で自分の力は重要ではない、と思い込んでしまいがちです。しかし、私たちは神に喜ばれるために生きています。さまざまな方法で、さまざまな表現で、私たちの誰もが神の喜びのために生きられるのです。そのことにきょう、気づいていただきたいと願います。ですから自分のことに卑下することはないのです。私たちを造られたのは神です。自己を卑下することは、神を悪く言うことにつながるのです。皆さんは神に造られた子どもです。まぎれもなく神の子です。あなたはあなたなりの方法で、神を喜ばせる生き方を、人を愛し、人に愛される生き方をすることが出来るのです。

神の愛と選びーー安息と再創造の喜び

今日2番目にお読みしたのは、エフェソの信徒への手紙1章4-6節にこのように記されています(352頁)。

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

これこそ神の喜びの目的です。神は私たちの人生がただただ忍耐するだけのような人生ではなく、喜びの日々を味わってほしいと願っています。楽しんでほしいとも願っています。私たちは喜ぶことや楽しむことが出来るのです。なぜならば私たちは神のかたちに似せられて造られたからです。神は第7の日に安息されました。私たちも安息することによって、喜び、楽しむ日々へと「再創造」されるのです。