「違う、そうじゃない」マルコ12:38-44 中村吉基

申命記15:7-11;マルコによる福音書12:38-44

律法学者とやもめ―対照的な二人の姿

今日の聖書の箇所には、律法学者とやもめが登場します。
そしてこの二人の行いを対比しながら、神に対して私たちがどのような態度を取るべきかを教えています。

まず律法学者について、イエスさまは38節で「律法学者に気をつけなさい」と警告し、彼らを批判されます。律法学者たちは外見や振る舞いによって信仰熱心さを装っていましたが、心の中では強い自己中心的な思いを抱いていました。

「彼らは長い衣をまとって歩き回る」とあります。この「長い衣」は特別な衣装ではなく、誰もが着ることを許されていたものでした。豊かな人も貧しい人も、地位の高い人もそうでない人も着ていたのです。

しかし律法学者たちは、おそらく衣をさらに長くしたり、高級な素材で仕立てたり、タッセルのような房をつけたりして、他の人々と差をつけていたのでしょう。衣服にこだわること自体は悪いことではありません。では、なぜイエスさまはそれを批判されたのでしょうか。

イエスさまは、衣を着る人のをご覧になったのです。
「私たちは他の人々とは違う」「比べものにならないほど正しい」といった、彼らの心の中ににじみ出る奢りや高ぶりを見抜かれたのです。

外見的信仰の危うさ

律法学者たちは、「会堂の上席」に座ることを好みました。これらの席は本来、悪いものではありません。礼拝の祭儀においては必要な座席でした。しかし彼らはそれを特権のように扱い、自らの優位を誇示するために利用していたのです。「宴会の上座(じょうざ)」についても同じです。40節には「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」とあります。

イエスさまは、このような態度を取る人々の行いを反面教師とするように教えられました。彼らは「人一倍厳しい裁きを受ける」と言われているのです。

律法学者たちは、神にどう見られるかではなく、「人からどう見られるか」に心を奪われていました。本末転倒していたのです。神の教えを知る宗教指導者でありながら、その行いは神の御心から遠ざかっていたのです。

彼らは宗教指導者です。神について、一般庶民よりもよく勉強し、知っていたはずなのです。ですから「人一倍」厳しい裁きを受けるのです。この世においては神のことを人に伝え、「偉い人」「徳のある人」そして知的階級に属していたであろう律法学者たちです。しかし神の目から見れば「厳しい裁き」を下されるのですから、神は決してこういう人間の行いを受け入れていません。

神に受け入れられる人とは

では、神はどのような人を受け入れてくださるのでしょうか。

41節からは、やもめ(夫を失った女性)の姿が描かれます。イエスさまは、金持ちたちの多額の献金よりも、この貧しいやもめの献げものを高く評価されました。

41節から44節までを読んでみましょう。

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。

やもめの献金

神殿には、女性の入れる「女性の庭」があり、そこに設けられていた柱廊(コロネード)には、13のトランペット形の献金入れが並んでいました。イエスさまはその様子をご覧になっておられました。私たちの聖書では「賽銭箱」と訳されていますが、私たちが想像するような寺社仏閣にあるようなものとは違いまして、保管室のような建物があったようです。人々はそこにきて献金額を述べて献げるということをしていたようです。ですからイエスさまのおられるところまで献金額が聞こえていたのだと思います。

やもめはレプトン銅貨2枚(約100円)すなわち1クァドランスを入れました。これは当時の1日分の労働賃金の64分の1に相当する、ほんのわずかな額でした。
けれども、これは彼女の「生活費全部」でした!
44節に金持ちは「有り余るものから入れた」。
ところが彼女は「乏しい中から、自分の持っているものをすべて、生活費全部を入れた」。
とあります。

ここで一つの対比がなされています。金持ちは〈有り余るもの〉から入れ、女性は〈乏しい中から〉入れたのです。さらに聖書は告げます。〈生活費全部を入れた〉のでした。金持ちはさして献げても明日からの自分の生活が困るようなものを献げたのでなかった。けれども、女性は「乏しい中から」「生活費全部」を献げたのです。皆さんもお分かりだと思いますが、一般の人々の目線で言えば、大勢の金持ちがした献金のほうがやもめのした献金よりも多くのものが捧げられているのです。

「生活費(ビオス)」とは「いのち」そのもの

ここで注目すべき言葉は「生活費(ビオス)」です。
ギリシア語の bios は単に生活の費用だけでなく、「人生」「生涯」「生活態度」をも意味します。

ここでやもめが献げたのは金銭だけではなく、自分の「いのち」そのものでした。
マルコ福音書の記者は、「自分の持っているものすべて」と書いたあとに、「生活費全部を」と繰り返すことで、彼女の生き方、信仰、態度を強調しています。

聖書に記されている「貧しさ」は物質に恵まれない、いわゆる「貧乏」を表しますが、ただ単に貧しいことが悪いことだとは教えていないのです。貧しいゆえに物質や人間的な力に頼ることができない。だから神に頼るのです。絶大な信頼を神に寄せるのです。

新しい理解―信仰美談の裏にある「痛み」

さて、このエピソードは、しばしば教会では「信仰的美談」として語られてきました。
イエスさまは、すべてを献げた女性の信仰を称えた――そのように理解してきた方も多いでしょう。私自身もこれまで、そのように説教してきました。

しかし、もう一歩深く読むならば、別の見方が見えてきます。
なぜこの女性は「生活費すべて」を献げたのか。彼女は神に感謝してそうしたのでしょうか、それとも――追い詰められてそうせざるを得なかったのでしょうか。

果たしてこれを額面通りに受け取ってよいものかと思うのです。なぜならこのような信仰的美談は、他の宗教の説話にも見られるからです。マルコ福音書の記者はそのような伝承を知っていたのだと思います。旧約聖書に記されている律法には、親のいない子どもたちや配偶者のいない女性たちを助ける(申命記10章、24章)ということを定めています。そして今日最初に聴いた申命記15章は「貧しい人への具体的な施し」について記されています。しかしこの女性は「生活費を全部入れた」というのです。

「なぜやもめは生活費を全額神殿で献げたのか」という疑問です。これについて福音書は詳しく語ってはおりません。この女性が神殿に抗議してこのようなことをしたのでしょうか。けれども丁寧にここを読んでいくとこの女性のエピソードを前にあるのは、「律法学者たちを非難する」というエピソード、この中に「やもめの家を食い物にし」とあります。そして今日は選句しませんでしたが、このあとすぐ13章に入るのですが、そこにはイエスさまが「神殿の崩壊を予告する」という場面が描かれています。その2つに挟まれるようにしてこの「やもめの献金」の話が置かれているのです。

この構成から見ると、やもめの献金の物語は、神殿体制の不正と搾取を告発する文脈に置かれているのではないでしょうか。

税金や献げ物の再分配の場である神殿、人々の心の拠り所である信仰の場所で本来神殿の側がこの女性の生活を扶助しなければならないはずなのに(申命記14:29)と思うのです。

そうであるならばこのエピソードはやもめの信仰を賞賛するような文脈ではなかったかもしれません。実際にこの前とあとの記事ではイエスさまは怒っていらっしゃる。穏やかな気持ちで41節以下の言葉を述べたようにはどうしても思えないのです。

神殿体制への批判と崩壊を予言

本来、神殿は困窮する人々を助ける場所であり、やもめや孤児を支える役割を担っていました(申命記14:29、15章参照)。
それにもかかわらず、この女性は生活費のすべてを差し出しています。

もし彼女が神殿に搾取されていたとすれば、イエスさまの言葉は賞賛ではなく、痛烈な批判として響くのです。
イエスさまは、やもめの行為そのものよりも、彼女を追い詰めた宗教的体制を憤っておられたのではないでしょうか。

身寄りのないやもめが生活の全てを入れたとすれば、実質的に死ぬということを意味します。どんな意図があってこの女性は神殿に献金をしたのか。もしかしたら神殿に搾取されていたのか。このマルコ福音書ではそこに光が当てられていない描き方をします。実際、この後イエスさまは神殿の崩壊を予言され(13:1-2)、その預言は紀元70年のユダヤ戦争で成就しました。

神が見ておられるもの

シラ書〔集会の書〕4章8-9,11-12節

貧しい人の訴えに耳を傾け、/穏やかにそして柔和に、答えるがよい。不当に扱われている者を/加害者の手から救い出せ。勇気をもって決断せよ。知恵(神)は、それに従う子らを高め、/これを追い求める者を助ける。知恵(神)を愛する者は、命を愛する者。

神は不正をおゆるしになりません。この時代の女性たちの正確な生きざまを知ろうとすることは難しいことです。しかし私たちは聖書のそこかしこにそのような小さく、弱くされた人たちの声が埋められていることを意識しながら読むことを続けていきたいと思うのです。