「光である神」ヨハネI1:5-10 廣石 望

ホセア書6:1-6;ヨハネの手紙I1:5-10

I

 本日の礼拝は教会創立28周年、世界聖餐日、そして世界宣教の日の合計3つを同時に記念する礼拝です。
最後の「世界宣教の日」から説明しましょう。これは私たちの教会が属する日本キリスト教団、通称「教団」で定められた記念日です。
教団は戦時中の1941年に成立し、戦後の1946年に再組織され、1967年に戦争責任告白を議長名で出しました。現在17の教区があり、2021年の統計では1660の教会、約1900名の牧師が活動し、約16万人の信徒がいます。そのうち現住陪餐が7.3万人、主日礼拝参加者は3.6万人ほどです。けっこう小さいですね。教団では、日本社会全体に先駆けて少子高齢化が進んでいます。
 さて、教団には世界宣教委員会(Committee for Ecumenical Ministries)という部局があり、世界の諸教会との関係窓口になっています。現在、私はその委員長です。宣教協約という最もオフィシャルな関係を結んでいるのが、台湾の長老派教会(PTC)、韓国のメソジスト教会と2つの長老派教会(KMC、PCK、PROK)、スイス改革派教会(SEK)、米国の長老派教会と改革派教会(PCUSA、RCA)、そしてインドネシアのスラウェシ島北部にあるミナハサ教会(GMIM)の合計8教会です。さらに在日大韓教会(KCCJ)があり、これは韓国系プロテスタントの合同教会です。協約の内容によっては牧師職と聖礼典を相互に承認しています。教団の牧師はそうした教会に行けば、すぐにそこで働き、聖礼典を執行することができます。これ以外にもフィリピン、オーストラリア、北米の諸教会と正式な関係があります。
 さらに教団はエキュメニカルな協議会や宣教団体の正式メンバーです。世界教会協議会(WCC)、アジア・キリスト教協議会(CCA)、ミッション21、福音連帯宣教会(EMS)、そして日本キリスト教協議会(NCC)などがそれに当たります。また教団は、だんだん数は減っていますが、9人の宣教師を6つの国に派遣しています。ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、台湾、カナダに教団派遣の宣教師がおられ、また教団に所縁のある宣教師がチェコ、マレーシア、米国、ブラジル、ボリビアで活動しておられます。他方で現在、約60名の受け入れ宣教師たちが日本の教会、ミッションスクール、社会福祉などの分野で活動しています。私たちの委員会はビザ申請の手続きを担当し、年1回の交流会を企画運営しています。この方々の出身国はカナダ、ガーナ、韓国、オランダ、フィリピン、シンガポール、南ア、スイス、台湾、イギリス、米国などです。
 昨年には私自身が米国ソルトレイクシティーで米国長老派教会(PCUSA)、ドイツ・ベルリンでベルリン宣教会(BMW)、またドイツ・フライブルクで福音連帯宣教会(EMS)の総会ないし記念式典に教団代表として参加しました。つい先ごろはEMSの代表団が来日し、私はその東北アジア地域の代表委員として、彼らといっしょに京都のNCC宗教研究所を含む日本の関係諸団体を訪ねました。さらに今年は、都内の東京台湾教会の創立100周年の記念式典がありました。現在この教会が教団に属するのは、1972年に日本が中華人民共和国との国交を回復した結果、台湾とは国交を断絶するに至り、台湾教会の財産が中国政府に接収される危険性があるのを回避するためでした。国と国の関係が在外教会にも影響を与えるのです。またつい先週、韓国の2教会の総会に教団代表団が参加し、もうじき台湾の長老派教会の総会への参加が予定されています。
 次に「世界聖餐日」は、教団が世界の諸教会と共に祝う祝日です。1940年代に北米で広がったエキュメニカル運動に根差し、カトリックとプロテスタント諸教派が相互の違いや多様性を認め合い、分断や対立から一致へと向かう超教派的な運動が広がりました。私たちの日本キリスト教団では、海外で働く宣教師や受け入れ宣教師と並んで、とりわけアジア圏から教団関係学校に留学している学生たちを覚え、教会の一致のしるしである聖餐式を共に祝います。
 そして3つ目に、今日は私たち「代々木上原教会」の28回目の誕生日です。おめでとうございます! 代々木上原教会は、上原教会とみくに伝道所の2つの教会共同体が合同して創設されました。「上原教会」は赤岩栄牧師の開拓伝道によって1931年に発足し、すぐそこの井の頭通りに面して旧会堂がありました。他方で「みくに伝道所」は1978年に発足した市谷集会(牧師・村上伸)が母体で、都内に場所を借りて礼拝を守っていました。これら2つの非常に個性的な群れは合同してひとつの教会となることを決意し、この場所に新会堂を建設して、1997年の今日その出発を祝いました。これは、同一教派内のエキュメニズムと言えなくもありません。
 代々木上原教会が大切にしてきたのは、「へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」(フィリ2:8)神に従ったイエスの姿に倣うこと、戦争責任告白の精神にしたがって、とくにアジアの諸教会や他宗教の人々と対話し、私たちが「主イエスにおいて一つである」(ガラ3:28)というみ言葉を信じることです。
 以上を簡単にまとめると、(1)私たちの教派はプロテスタント教会のひとつとして、世界の諸教会と交流関係にある。(2)そのエキュメニカルな統合性の象徴として、他教派の人々と同じ日曜日に聖餐式を祝う。そして(3)代々木上原教会はそれ自体が、教会合同によって成立した共同体であるとなりましょう。

II

 本日の聖書箇所は、「神が光であり」、神の中に闇はないと言います(5節)。同じ第1ヨハネ書簡には、「神は愛である」というよく似た発言もあります(4:8)。私たちの互いの出会いの中で愛が経験されるとき、神が私たちを明るく照らします。「愛」や「光」は神の本質についての発言でしょうが、その逆ではありません。つまり「愛が神である」「光が神である」とは言えません。愛さえあれば、あとは何でもいいと私たちは考えませんし、私たちは太陽神を崇拝しているわけでもありません。
 さらに神の中に「いかなる闇もない」とは、ヨハネ福音書のキリストに関する発言を受けています。ヨハネ福音書には、「光は闇の中に輝いている」(ヨハ1:5)、「私は世の光である」(8:12)、「私が光として来たのは、私を信じる者がすべて闇の中に留まることのないためである」(12:48)とあります。このキリストについての認識を、ヨハネ書簡はその起源である神にまで押し広げているわけです。こうして、「闇」は神の一部でもなければ、「光の神」と「闇の神」がいるという神に関する二元論でもありません。
 この視点から、続く6-10節は、全体として見れば罪の赦しについて語ります。
 神との交流は光の中にあるので、もし私たちが闇の中を歩くなら、私たちは偽りの存在であり真理を行いません。しかし、もし光の中を歩むなら、私たちは互いの交流の中で、キリストの血によって罪から浄められる(6-7節)。また、私たちが「自分たちに罪はない」と言うなら、私たちは迷い出て、真理から離れます。しかし、そのことに同意するなら、神の信実と義が私たちを赦し、私たちを不義から浄める(8-9節)。なので「自分は罪を犯したことがない」と言うとき、神の真実な言葉は私たちの内にはありません(10節)。おそらく、キリスト教への入信に際して行われる洗礼指導が、思い起こされているのでしょう。
 いくつかの表現に注目しましょう。まず「私たち」という一人称複数形は、ひとまず教会共同体の構成メンバーを指すでしょう。つまり光と闇、真理と偽りの区別は、共同体の外側と内側の区別でなく、私たち自身に関わる問題です。神との交わりはキリスト教共同体の存立の基盤ですが、そのことが、〈私たちは本当に光の中を歩んでいるのか〉という問いを浮かび上がらせるとも言えそうです。
 次に、私たちが神の光の中を歩むとき、私たちは「互いに」、原語のギリシア語そのものは「他者たちと」交わりをもちます。つまり神との交流は、私たち共同体内の、また外部の人々との交流として実現します。そうした「光の中の歩み」は、実践的な愛によって絶えず実証されなければなりません。実践を伴わない愛は存在しないからです。
 最後に、私たちが光の中を歩むためには、キリストの血が私たちをすべての罪から、また神の信実と義が私たちをすべての不義から浄めることが必要です。そしてそのとき、私たち自身による罪責の告白が必ず生じます。じっさいには罪や不義から浄められて初めて、私たちの相互の交流は成立するのでしょう。しかし私たちは、日々の歩みにおいて決して罪なき存在ではありません。世界には流血と分断と敵意が溢れています。それは私たち自らが生み出したものでしかありえません。そうした罪の力を克服する道が与えられて初めて、私たちは光の中を歩むことができるようになります。その起源が神の信実と義であり、その実践的な姿が私たちの罪の告白なのだと思います。
 逆に言えば、ヨハネ書簡は、例えば「真理の認識を有する者は自由な人間である。そして自由な人間は罪を犯すことがない」(外典『フィリポ福音書』77:15-17)とは言いません。私たちがありのままで神から愛されていることは、私たち自身による罪の認識と告白を不要にしません。むしろ、必ずそれを生み出します。「私たちに罪はない」と言うことは、神を嘘つき者にすることであり(10節)、むしろ罪の告白こそが、私たちを自由にするのだと思います。

III

 昨年度の後半、私は1か月間南インドのケララ州に、そしてその後の6か月間ドイツに滞在しました。南インドは前任校のスタディーツアーを12年間引率した地であり、今回はかつての参加者たちが夫や子どもたちを連れて、また新しい学生たちもいっしょに来ました。滞在中、私たちは当地のシリア正教と総称される諸教派の礼拝や教会学校を訪ね、ダリット支援のキリスト教系NGOの活動に参加し、総主教や神学校を訪問しました。
 インド・ケララ州のシリア正教諸派は、福音書に出てくる使徒トマスのインド伝道に、その共通の起源をもつ教会です。外典『トマス行伝』に彼のインド伝道が記述されています。その後ようやく16世紀になってローマ・カトリック教会は、具体的にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル領であったインド西海岸の都市ゴアに拠点を置いてカトリックの布教を開始しました。イエズス会は教育と社会事業を通じて、その後のインド文化と社会に大きな影響を与えました。しかしポルトガルの覇権と結びついていたこともあり、当地の伝統的なシリア正教をカトリックの典礼に統一化しようと圧力をかけたのです。そのため現地のシリア正教は、この西欧列強による植民地主義に抵抗し、自分たちのキリスト教信仰を守ろうとしました。同じキリスト教でも植民地側のそれと被植民地側のキリスト教があったのです。
 ザビエルは日本にとって福音の使徒となった人物です。彼の遺骸は現在、ゴア市のボンジェジュ教会内に聖遺物として保管されています。私はそれを見ました。彼の祝福の右手下膊はローマのジェズ教会に、胸骨の一部は日本にもあります。カトリック教会には、聖遺物崇敬の伝統があるからです。ゴアは今でも、ヨーロッパの風情を強く感じさせる都市です。こうして教会間の交流の歴史には、「一致」をどう捉えるかをめぐる文化的パワーゲームの側面もありました。
 ドイツでは、北部の都市ハンブルクにある、ミッションアカデミーという施設で暮らしました。いっしょに住んだのは、ハンブルク大学神学部で神学博士論文を執筆中の、およそ30歳代の男女留学生たちでした。彼らはたまたま韓国、中国、フィリピン、インドネシア、インド北部の出身でした。つまり皆が、第二次世界大戦中に日本の覇権が及んだ地域出身の、若い世代の神学生たちです。彼らの母国や出身民族は、日本の過酷な支配を経験しました。家族と教会は、今なおそのことを記憶しています。そして日本の支配を脱した後も、さまざまな苦難を乗り越えてきました。
 アカデミーの研究主事さんには、男女のドイツ人牧師たちと並んで、タンザニアやインド中東部出身の牧師たちもいました。皆さん、ルター派です。かつてドイツは世界の各地に植民地をもっていたので、北欧のルター派諸国だけでなく、太平洋諸島やアフリカにも大勢のルター派信徒がいます。まったく肌の色が違う人たちです。翻って教団を含む日本の教会は、戦前と戦中、朝鮮半島や旧満州国熱河省などで宣教活動を行いましたが、敗戦によって日本国はアジア地域のすべての権益を失いました。その結果、現在の日本以外のアジア諸国に、教団の教会や信徒たちは存在しません。したがって植民地主義や帝国主義の時代のキリスト教宣教の遺産を脱植民地化するという課題は、日本の場合、西欧の教会とは違う角度から問われなければなりません。いずれにせよ私は、アジアの諸教会の未来を担う神学生たちとの出会いを通して、自分が、また自分が属するキリスト教会がいったい何者であるのかを、新しく問うよう促されました。こうしたエキュメニカルな出会いを通して初めて、私たちは自分自身を新しく理解するようになります。
 そのとき、光である神が私たちを互いに結び合わせること、なおかつ罪の告白が罪の赦しと結びついていることを、私たちは喜びをもって経験できるでしょう。

IV

今年の7月、教団の常議員会が可決した「戦後80年にあたって、平和を求める祈り」を共に祈りましょう。

 今、心を一つにして、私たちの父なる神に祈ります。
「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天になるごとく、地にもなりますように。」  
 アジア・太平洋戦争の敗戦から80年を迎えます。神が造られ、愛された何千万人もの命が、私たちの罪によって傷つけられ、奪われたことを深く悔い改め、人類が二度とあのような過ちを犯すことがないようにと、平和の主に祈り願います。
 しかしこの80年の間にも、多くの戦争・内戦が世界中であり、今も1億人を超える人が難民とされています。私たちがまことに無力であったことを悔いるものです。この現実の中で、それでも私たちは復活の主がまことの平和へと世界を導いてくださることを信じ、心を新たにして平和を祈り願います。そして、御言葉を宣べ伝え、御国を目指して歩んで行きます。また、私たち自身が、戦時中に神と人とに対して大きな罪を犯したのみならず、その後も時代と共に変わりゆくイデオロギーや歴史観に振り回されたことを悔い改めます。主の御前に立って全ての者が悔い改め、ただ主の平和に仕える者となりますように。時代は変わり人は変わりますが、神の言葉は永遠に変わることがありません。正しいお方は、十字架の主であるあなただけです。主よ、憐れんでください。
 近年は日本の近海においても緊張状態が続いています。その様な中で琉球弧の島々に住む方々が担わされている過重な労苦に対して痛みを覚えます。私たちが自分の利益だけを追い求めることなく、十字架の主イエス・キリストの御前に立って、神が与えられた力と知恵とを平和の実現のために用いてまいります。
 私たちは、神の子・平和の子とされた者として、御国を仰ぎつつ祈ります。
 強い国家や民が、弱く小さな国家や民を力によって支配し、虐げることがありませんように。国家・民族の間にある憎しみの連鎖が断ち切られますように。困窮のただ中にある一人ひとりに、生きる力と勇気が与えられますように。そして、核の脅威が世界中から取り除かれていきますように。
 平和の主イエス・キリストよ、早く来てください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン