「前のものを見る」フィリピ3:7-14 中村吉基

イザヤ書46:1-4;フィリピの信徒への手紙3:7-14

恵老祝福礼拝によせて

今日私たちは恵老祝福礼拝をささげています。明日の敬老の日を前にして、齢を重ねることは神さまからの恵みであることを憶えて、私たちの教会では今年から始めることにしました。
長い人生を歩んでこられた方々を覚え、神さまの恵みに感謝し、そしてこれからの日々のために全ての世代の方々がこの礼拝で祈りを合わせましょう。

私たちのこれまでの日々には、神さまからの恵みの中で、いろいろな人との出遇いから与えられた数々の恵み、支え、導き、温かい励ましがあったことと思います。この礼拝で感謝の思いを新たにしたいと思うのです。

そして神さまのいつくしみに対する信頼を新たにし、これからはこれまでにも増して、神さまが与えてくださった道の上を美しく、正しく生きていく決心をしましょう。

また年齢を重ねると身体にも支障が起こりますが、イエスさまの苦しみに合わせて、辛い日々を乗り越えていくことができますように、その犠牲をも神さまにお捧げしましょう。しかし「老い」とは、単に力が衰えることではありません。むしろ「恵みを重ねること」です。ですから私たちの教会では齢を重ねることは神さまの恵みであることを信じて、「恵老」という字を使っています。長い年月の中で祈り、苦労し、喜び、また涙を流して歩んでこられた人生は、すべて神の御手の中で尊いものです。

さて、今日の聖書の箇所です。年齢を重ねると「もう自分の働きは終わった」「最盛期は過ぎた」と思うこともあるかもしれません。けれども聖書は、人生の晩年こそ新しい仕方で神が働かれる時である、と語っています。この言葉は大きな励ましとなります。

身体は弱り、できないことも増えるかもしれません。しかし、神はなお一人ひとりをここに置き、信仰の道を走らせてくださいます。皆さんは祈り、励ましの言葉、そして存在そのものが、次の世代を導く大切な働きなのです。病床にあっても、祈りによって教会と共に走ってくださっています。

パウロの証し

今日私たちに届けられたのはフィリピの信徒への手紙からのところです。この箇所でパウロはこう言います。13節の途中からです。

後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へと召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリピの信徒への手紙の代表的な言葉は、4:4の「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」という箇所ですが、実はパウロはこの時、その宣教のゆえに牢獄にいてこの手紙をしたためました。死を間近に見つめながらも、それでも「まだ前を向く」と言い切ったのです。それは、信仰の歩みには終わりがなく、どんな状況にあっても「キリストに向かう一歩」が残されているからです。

ある牧師の証し

私が毎朝読んでいます聖書日課に記されてあったキリスト者の証しにはこのようなことが書かれていました。

ある方のお父さんの話ですが、牧師として献身されたお父さんは、50年以上奉仕した後、病によって説教ができなくなりました。悪性脳腫瘍と診断されたからです。周囲の人たちは皆、そのようになったお父さんを憐れみました。しかし介護老人保健施設に(老健)に入られてからのち、車椅子とベッドが彼の新しい「説教壇」になったというのです。

その後の日々において廊下を歩く時さえ、彼はなお「イエスさまの話をし、賛美を歌い、人を励まし続けた」といいます。ある時、竜巻警報が発令されて、館内のベッドが廊下に移動され、入所している人が不安に怯えている時にも、彼は賛美歌を歌って、不安を和らげるように努めました。息子さんは言いました。お父さんの最期の日々と迎えるにあたって、父の影響力はこれまで以上のものでしたと。

自分の最盛期はもう遥か遠く昔のことだという人もおられます。でも実のところ、自分の最も輝いていた時期は過去のことなのか、これからなのだろうか。それを決めるのは神さまお一人です。私たちは身体に病を抱えたり、以前にはできていたことができなくなったり、そのような「弱さ」を感じる時に、「過去の栄光」に目をやります。決してそこに「未来の栄光」が見えてこないのです。

最期の時期こそ、その信仰の輝きは最も強く、人々に影響を与えました。

これは「もう役割は終わった」と思いやすい私たちに、大切なことを教えてくれます。

神は人生のどの時期にも、私たちを用いてくださる。むしろ晩年にこそ、最も深い証しが生まれるものです。パウロは獄中にいる間、死を覚悟したかもしれません。ただ上にあるものを見上げて、前のものに向かって、さらに自分には素晴らしいことが待っているを確信しました。パウロは、過去は過去であると、過去にとらわれず、それを手放して神さまがこれまで以上に、より高いところに召してくださるのです。神さまは私たちの命が尽きる日、その時、その瞬間まで働き続けてくださいます。

もしも今どうしてよいのかわからない、どこへどう進んで行ってよいのかわからないという方がおられたならば、率直に神さまに求めてください。祈ってください。神さまが必ず皆さん一人一人にしかできない希望を与えてくださいます。

信仰の先達として

今日の恵老祝福礼拝にあたって、私たちは年長者の歩みに感謝すると同時に、その存在が今も教会にとってかけがえのない力であることを忘れないようにしましょう。その祈り、温かい言葉、信仰に裏打ちされた笑顔や忍耐が、若い世代に勇気を与えています。そして、これはご高齢の方々だけの恵みではありません。教会全体にとって大切な招きです。

年長者の歩みを尊び、感謝し、共に支え合うこと。若い世代は信仰の先達か学び、年長の方々も若い人たちの力と新しい感性から励まされます。そのようにして教会は、世代を超えて共に「キリストを知る」という目標に向かって歩み続けるのです。そして、私たちすべてが過去にとらわれることなく、未来を希望に生きるよう招かれています。世代を超えて、共に「キリストを知る」というゴールに向かって走り続けましょう。

祈 り

祈りましょう。

神さま。
私たちの過去は感謝してあなたに委ね、今をあなたからの恵みとして受けとめ、未来を希望に生きたいと願います。最盛期は「過ぎた」のではなく、「これから」なのです。
神がキリスト・イエスによって上へと召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
神さま。やがて命の終わりを迎えた際に、復活させて、イエスさまが待っておられる天に引き上げてくださることを、競技場での競争の後で、勝ち得た者が表彰台に挙げられることになぞらえてパウロは記しました。
あなたはいつも私たちと共におられます。そして神は私たちを最善へと導いてくださるお方です。
今日、恵老祝福礼拝をともに捧げ、長い人生を歩んでこられたお一人おひとりを覚えて感謝いたします。
これまでの歩まれた道を大切にしつつ、あなたが与えてくださったすべての恵みに感謝できますように。どうかこれからの日々も、祈りと希望をもって過ごすことができますように。またそれに続いていく世代がその姿に励まされ、共に信仰のレースを走る群れとならせてください。 イエス・キリストによって祈ります。アーメン。