列王記上17:17-24;マタイによる福音書9:18-26
同情するイエスさまと同情しない人々
ある男がイエスさまのところにやってきました。この人の娘さんが死んでしまったと言いました。この父親はイエスさまがきっと奇跡を起こしてくださるだろうと信じて、ここにやってきました。
するとそこにちょっと割り込んできた人がいました。12年間も出血が止まらない病気の女性です。今日の箇所には病名や詳しい病状のことは書いてありません。しかしそんなにも長い間病によって苦悩が続いている人であることには間違いありません。
イエスさまは「今忙しいから」とか「ちょっと待って」とは一切言われません。
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治ったと聖書は伝えています。
そのあと、イエスさまはこの男の家に自ら進んで入って行かれました。イエスさまは死んでしまった娘の手を取って「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。そしてその通りに少女は起き上がりました。「このうわさはその地方一帯に広まった」と言います。地元の大ニュースです、そのような中で特に父親であるこの男の喜びは、格別のものであったでしょう。幼い子どもを亡くした父親の嘆きに、イエスさまは心の底から同情されました。
それからこんなことも書いてあります。「イエスは、指導者の家に着き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。『あちらへ行きなさい』」。イエスさまは「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」を外に出されました。
これらの人たちはいったいどんな人たちなのでしょうか? それは人の悲しみをただ見物に来た人たちです。「笛を吹く者」は葬式の時に雇われた人です。貧しさゆえにこのような職についていた人たちかもしれません。けれども決して心から悲しんでいる人とは思えません。「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」はイエスさまとは正反対の「同情しない人」です。イエスさまはただうわべだけで人の不幸な出来事にかかわろうとする人たちを遠くに押しやりました。
Aさんとの出会い
数年前のことでした。私が当時働いていた東京・新宿の教会に、Aさんがやってきました。Aさんは何年も一緒に暮らしていた同性のパートナーを病気で亡くしたのですが、お互いの両親や親族に自分たちの関係を話していなかったので、パートナーの臨終に立ち会えず、その後もたくさんの不都合なことが起きました。ただ、亡くなる日の早朝、誰もいない病室でパートナーと2人だけで結婚の誓いをしました。そのあとしばらくして、パートナーは亡くなってしまったのですが、神を信仰してもいない自分たちがそのようなことをして良かったのだろうかと、Aさんは教会に来て私に問い続けました。
でもその質問に対して私は即答できませんでした。誓いをしたこと自体は間違いではない。でも神さまの前で正しかったのですかと聞かれると答えに窮したのです。でもAさんと話し始めて10分くらいして「わかりました。改めて結婚式をやりましょう」と提案した自分がいました。
私がそう言ったのは、決して式を「やり直しましょう」という意味ではなく、結婚式を改めてすることによってダメージを受けたAさんの心が癒やされると考えたからです。グリーフケアというのでしょうか。Aさんの心に寄り添いたい。それで式をやった方がいいのではないかと思ったわけです。
しかし、自分から提案しておいて、これは困ったなと思いました。今まで牧師としていろいろな方がたの結婚式を執り行ってきましたが、亡くなった人と生きている人との結婚式なんてもちろんしたことはないし、当然そのようなケースでの結婚式文などあるわけもなく、どうすればいいのかと頭を抱えました。それでいろいろな牧師仲間に事情を話して、相談して、知恵を借りて、都内の教会でその2人を知っている人、亡くなった後に遺されたAさんを支えている周りの福祉関係者など20人くらいを集めて結婚式をしました。Aさんがパートナーと死別して10か月後、教会を訪ねて来てから4か月後のことでした。
Aさんが1人で、亡くなったパートナーの遺影を持って礼拝堂の真ん中の通路を歩き、Aさんの左手の薬指にリングを2つはめて指輪交換としました。これからAさんには、パートナーの分まで生きてほしいとの思いを込めてそうしました。もちろん相手方の親族に知られてはいけないので完全シークレットで、表向きには追悼集会のように、これまでAさんたち2人で歩めたことを感謝するようなエピソードも織り交ぜながら行いました。記念会と結婚式が一緒になったような感じでした。私としても得難い経験となりました。
一緒に居続けること
Aさんは教会の礼拝に出席し始めた頃、事情を知っている教会員はまだまだAさんの癒えない悲しみをおもんばかって「気を落とさないでね」「Aさんが元気で居なければだめじゃないか」といろいろ気遣って言葉をかけておりました。次第に教会にAさんがお友達やらいろいろな人を連れてくるようにもなりました。お茶やお菓子を持ってきて一緒に食べてくれる人もいました。でもAさんがいちばん慰められ、力づけられたのは、ある友達の姿でした。その人は結婚式の時に最前列で号泣しながらAさんを見守っていましたが、何時間も何時間も、何日も何日も寄り添っているだけ、言葉もありません。ただただ黙ってAさんに寄り添っていました。その姿は、同じ気持ちになることなんてできないけれども、あなたが辛いことは理解できると言っているかのようでした。
でも反対にAさんの体験を利用して美談に仕立てて、メディアで公にしようとしたり、まだ本人の悲しみが癒えていないのにもかかわらず、何か「お金儲け」のために、利用しようとした人たちも近づいてきていました。実はこういう人たちが、今日の聖書にも出てきた「同情できない」「笛を吹く者たち」や「騒いでいる群衆」同じではないかと私はその時に思ったのです。
「他人の痛みを自分の痛みとして感じる」力
私たちはイエスさまのように奇跡を起こすことが出来ません。けれども、イエスさまは他人の話にじっくりと耳を傾けています。そしてその人が今、何を必要としているのかを的確に判断なさいました。私たちはそこまでできなくても、他人の話に耳を傾けるだけで、その人がいやされる一歩となることがあります。現代人はまさにスピードを早くしていますから、悩んでいる人の側もなかなかそういう忙しい人たちに自分の心を打ち明けることはできません。しかし私たちが愛を注ぐとき、優しい気持ちでその人に接して、ただその人の話に耳を傾けていくだけで、その人の重荷は取り除かれることになるかもしれません。
私たちは本来「同情することのできる者」として神さまから造られているのです。神さまは、私たちが愛し合い、同情しあうことによって生きていくことをお望みです。ですから、私たちが勝手に、自分の都合で心を閉ざしたり、心に鍵をかけてしまうことは本来の姿ではありません。そして私たちの周りには皆さんの愛を、同情を必要としている人たちが必ずいるはずです。私たちが神さまの愛を行うチャンスと言えます。そして私たちの誰もが神さまから「他人の痛みを自分の痛みとして感じる」力を与えられているのです。