「救う方がシオンから」ローマ11:25-36廣石 望

創世記15:1-6;ローマの信徒への手紙11:25-36

I

 ガザでの戦争が終わることを世界中の人々が望んでいます。しかしネタニアフ政権はガザやヨルダン西岸地区からパレスチナ人を追い出し、ユダヤ人による入植を目指しているようです。そのさい、旧約聖書で「神が私たちに約束した土地」という思想がしばしば持ち出されます。その「大イスラエル」と称される範囲は現在のイスラエル国家の領土をはるかに超え、ときに「ユーフラテスからナイルまで」と言われます(創15:18参照)。
 もちろんイスラエル国内には、ガザ戦争の停止を訴える人々がいます。さらに国外に在住するユダヤ人には、「私たちに民族国家は不要だ」という考えの人もいます。どこかの国の国籍をもちユダヤ教徒であり続けるのがよいという理解です。いずれにせよ現在のイスラエル政府の政策は、世界に散在するユダヤ人の暮らしを以前よりも困難なものにしています。
 じつは米国を中心に、ユダヤ人国家建設という意味のシオニズムを強力にサポートするキリスト教系の団体や人々がおり、彼らは「キリスト教シオニスト」と呼ばれます。世界の終わりに神の救いが再び「聖地」のユダヤ人に訪れるというキリスト教的な理解に基づいて、イスラエル国家によるシオニズム政策をサポートする人々です。
 19世紀に英国で興隆したディスペンセーション主義によれば、世界の終わりに神はユダヤ人をパレスチナの地に連れ戻し、そこに千年王国が到来するのだそうです。この教説を取り入れた「福音派」は米国で、1970年代に勢力を増しました。現在は、巨額の支援金をイスラエルに送るキリスト教系の政治団体が複数存在します。
 キリスト教シオニストを含む福音派はトランプ政権の支持基盤のひとつで、政権の中枢を支えています。トランプ政権はエルサレムをイスラエル国の正式な首都と認め、そこにアメリカ大使館を移し、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)やゴラン高原(シリア領)を実質的なイスラエル領と認めます。福音派の牧師で駐イスラエル大使を務めるマイク・ハッカビーは今年、「パレスチナ人の国家はイスラエル国外のイスラム諸国の地域に作るのがよい」という趣旨の発言をしました。ホワイトハウスを訪ねたネタニアフ首相は、トランプ大統領に向かって「あなたはキュロス王のようだ」と讃えました。キュロスは紀元前6世紀、ユダヤ人をバビロニア捕囚から解放し、パレスチナへの帰還と神殿再建を許可したペルシア人の王です。これから先、エルサレムの丘で何が起こるのでしょうか。
(以上、加藤喜之「トランプを支える「聖書の政治学」――キリスト教シオニズムとは何か?」、『Voice』2025年9月号、208-215頁を参照)

こうした現代イスラエル国家をとりまく諸問題を、古代人である使徒パウロは当然まったく知りません。それでも彼のローマ書簡の大まかな論証とその一部の発言をとりあげることで、現在の状況を捉える私たちの眼差しがどうあるべきかを、ごいっしょに考えてみましょう。

II

 使徒パウロが紀元1世紀の50年代末に執筆したローマ教会宛ての書簡は、出だしと第二部の倫理勧告に挟まれた中央部分で、つごう4つの「救いとは何であるか」についての構想を提示します。
 最初に提示されるのは〈律法の行為による救い〉というコンセプトです(1-3章)。「神は一人ひとりの行為に従ってその人を裁く」という理解は、当時のユダヤ教諸派でも広く共有されていました。パウロの特徴は、律法の遵守はユダヤ人だけでなく、良心という律法をもつ異邦人にも要請されている。しかし誰一人としてそれを守らない(/守り切れない)。それゆえ人類全体が、神の怒りの審判に晒されるとする点です。審判が個人主義的に普遍化されるのです。したがって神の裁きの前では、ユダヤ人と異邦人の差異が消えます。
 次にパウロは〈律法なしの義認による救い〉という教えを展開します(4-5章)。父祖アブラハムの信仰がそのモデルです。彼は律法賦与に先立つ時代に、割礼のないまま神に信頼して義とされました。それゆえ、この義認の恵みは律法なしで、なおかつ割礼の有無に関わりなく妥当します。16世紀の宗教改革で、信仰義認論は中心的な役割を果たしました。しかし、すでに生前のパウロに向けて、「信仰さえあれば何をしてもいいのか」「律法の行為はまったく無意味なのか」「お前は放埓主義なのか」などの批判が寄せられました。信仰者は倫理の点で、どのような存在なのかという問いです。
 これに対してパウロは、〈変貌による救済と律法からの自由〉という理解を提示します(6-8章)。洗礼を通して人はキリストと共に死に、復活のキリストと共に新しい命へと生きる。信仰者は新しい存在へと変貌ないし変身するので、律法の要請との内的な葛藤は克服され、信仰者は自由に善い行いをすることができるというわけです。このコンセプトのポイントは、人間の変貌が神の新しい創造行為に属するので、それが宇宙全体の変貌をもたらし、そこに万人が包摂されることにあります。しかし、ひとつ大きな問題が残ります。大部分のイスラエルが現実として福音を拒絶するのはなぜか、という問いです。
 そこでパウロは最後に、第四のコンセプトとして〈あらゆる律法に先立つ選びによる救い〉を提唱します(9-11章)。福音を拒否するイスラエルを、神は一度選んだがゆえに決して見棄てないと論じるパウロは、一見するとイスラエル中心の民族主義に舞い戻っているかのように見えます。しかし彼はこの選びを、律法に先立つ神の主権的な「憐み」と理解することで、不信のイスラエルをも神は憐みによって選ぶことができると論じます。「選び」は通常、エリート主義的です。つまり少数の者が選ばれ、他の者たちは棄てられる。しかしパウロは「選び」を「憐み」から理解しなおすことで、普遍的な救済の基礎に据えます。つまり福音を拒絶するイスラエルを神が選ぶことができるなら、同様に福音を拒絶する異邦人をもそうできるでしょう。
 こうして律法が求めることを行わず、義認の申し出を拒否し、真人間への変貌のチャンスも棒に振ることで、「福音のゆえに神の敵」となった者たちにも、神の「憐れみ」の恵みが妥当する。つまり神の恵みは、本来それを受けるに値しない者に、不釣り合いな仕方で注がれる、というのがパウロの神理解の特徴です。

III

 本日の箇所を見てみましょう。先ほど紹介した第四の「選び」の段落に属します。

兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われる。(25-26節)。

 パウロはユダヤ人として神の民イスラエルに属します。そのような者として、律法なしの異邦人伝道を推進してきました。そして、すでに今、いく人かの異邦人たちの回心がいく人かのイスラエル人を信仰へと促すのであれば、より多くの異邦人が救いに達すれば、なおいっそう多くのイスラエル人が救われるだろう、という趣旨でしょうか。
 新共同訳聖書で「異邦人全体が救いに達する」と訳される個所は、直訳すると「異邦人の充満が入る」です(協会共同訳は「異邦人の満ちる時が来る」)。そして、そのとき「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける」(26節――イザ59,20参照)。
 パウロはギリシアの都市コリントスで、この書簡を書いています。自分が異邦人伝道によって創設した諸教会の代表者たちが、エルサレム教会宛ての献金をもって集合するのを、そこで待っていました。ローマ教会に向かって「私は君たちのもとを訪問したい」とパウロは言いますが、その前にエルサレムに献金を届けなければなりません。つまり心は西(ローマ)に、しかし体は東(エルサレム)に向いていて、ある意味で引き裂かれた状態にあります。
 そうした状況の中で、「異邦人の充満が入る」ときに「救う者がシオンから来る」というイマジネーションは、何を意味しうるでしょうか。キリスト教シオニズムによれば、現在の民族国家イスラエルが千年王国の基礎になるという預言と理解されます。しかし、これはパウロ自身の理解ではないでしょう。
 もしかするとパウロは、献金を伴って彼と共にエルサレムに上京する異邦人キリスト者たちが神殿に入るとき、その内陣から再臨の主キリストが現れ、すべての神殿祭儀を異邦人に向けて解放し、することで同時にイスラエルの不信をまったく取り除くだろう、と夢見ていたのではないでしょうか。つまり「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(マコ11:17に引用されるイザ56:7)というイエスの夢が、パウロにも生きていたようなのです。じっさい彼はエフェソスから同伴した異邦人キリスト者トロフィモを神殿に連れ込んで、聖所を穢したという廉で逮捕されました(使徒21,27-30)。
 いずれにせよ、こうした理解は「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(32節)という発言とよく合います。この神中心的な発言は、人間の側のキリスト信仰の有無を問いません。人間の信仰でなく、神の憐みが万人を救うからです。 他方で私たちの教会は、「万人」に対して普遍的に開かれた共同体ですが、キリストへの「信仰」を参加条件としており、現実には個別的な共同体として存続しています。パウロの共同体も同様です。するとパウロにとって、彼が信じる神はキリスト共同体よりも大きいと言ってよいでしょう。

IV

 最後に、パウロとキリスト教シオニズムの差異について、気づいたことを短く申し上げます。
 まずパウロを含む聖書のイスラエルと、現在パレスチナにある国家イスラエルは同一物ではありません。国家イスラエルの政策への異論は、それがそのまま反ユダヤ主義であるわけではありません。それは「日本」とその時々の政権が同一でないのと同様です。例えば、かつて戦争に反対したために、国策に逆らう者として治安維持法によって検挙、弾圧された人々は、真のあるべき日本のために仕えたと言えるのではないでしょうか。
 次に、パウロは万人の救済に大きな関心を寄せましたが、キリスト教シオニズムの救済理解は普遍主義的ではありません。彼らは、現代ユダヤ教徒が共有しない千年王国説という特殊キリスト教的な教説に依拠します。またイスラエル国内にも在住するイスラム教徒や、アラブ系キリスト教徒などの存在は無視されています。
 最後にパウロは、キリスト信仰の有無を超えて、神のイニシアティブによる救済に期待しました。他方で福音派を含むキリスト教シオニストは、例えば最高裁判事を入れ替えることで人工妊娠中絶の禁止を実現する、つまり自分たちの宗教的理想を政治的手段によって達成しようとします。
 もし私たちが平和を求めるならば、私たちが現行の個別的宗教の内的確信に基づいて、その限界を越えなければならないことを、パウロのテクストは示唆するように思います。